礼拝の話

2024/10/02 

9月24日(火) 聖書 マルコによる福音書 14章45~50節 校長 小西二巳夫

「師弟百景」というタイトルの本があります。

師匠とは、技術や学問を教える人のことで、弟子は反対に教えてもらう人のことです。

百景は百の景色と書き、師匠と弟子の関係もさまざまだということです。

師弟百景に紹介されている多くが職人と呼ばれる人たちの仕事です。

その一つに宮大工がありました。

大工における師弟関係、それはイエスにもそのまま当てはまります。

イエスの父親のヨセフは大工でした。

今から2000年以上前の時代、職業の選択というものはまずありませんでした。

農家の家に生まれたら農家、大工の家に生まれたら大工、それが当たり前でした。

イエスも当然子どもの頃から、大工になるために、父で師匠のヨセフの下で仕事を手伝い修業をしたはずです。

師匠としての父ヨセフは弟子である息子イエスに厳しかったはずです。

一人前の大工になれなかったら人生は拓けないからです。

そのイエスが30歳を超えて世の中に出て活動を始めます。

そして出会ったペトロたちに「自分についてくるよう」声を掛けました。

ペトロたちは何もかもほっぽり出してイエスについて行ったと書かれています。

弟子になったわけですが、福音書を読むと、イエスの弟子となったペトロをはじめ多くの若者は、自分たちの仕事が何かきちんと理解できていないこと、イエスの言葉の意味が分かっていなかったようです。

はっきり言って出来の悪い弟子たちでした。

弟子の一人のイスカリオテのユダがイエスを裏切ったのは、イエスが他の弟子たちを甘やかし、厳しく指導しないことに失望したからとも考えられます。

実際、イエスが十字架にかけられた時、ペトロをはじめ弟子たちは逃げ出しました。

その弟子たちが、やがてイエスは復活したこと、そして自分たちの中で生きておられると確信して、人生をかけてイエスの救いを伝える人たちになっていきました。

弟子たちが変わったのは、自分がイエスに徹底的に愛されていたことに気づいたからです。

そして師匠のイエスの愛に何としてでも応えたいと、心から願ったからです。

師弟百景にはさまざまな師匠が紹介されていますが、表面的な違いはあっても、共通しているのは、それぞれの師匠が弟子に愛を持って臨んでいることです。

清和の教師は一般的な師匠以上の愛で一人ひとりを受けとめたいと考えています。

その根底にあるのは、教師自身が自分はイエス・キリストによって愛されている、生かされているとの自覚です。

愛されている自分が、神さまによって選ばれ入学をし、日々の学校生活に取り組む一人ひとりを愛さないでいられないとの思いを強く持っていることです。

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