清和女子中高等学校。創立113年の高知県の私立女子校。キリスト教主義の中高一貫校です。
2024/10/03
日食なつこさんの「廊下を走るな」と言う曲があります。
その歌詞の中では「廊下を走るな 陰口叩くな 飯は残すな 挨拶忘れるな そういうことはあのころ誰もが教えられているはずなのに」と歌われています。
歌詞にあるように「飯は残すな」と言われても、私はグリンピースが入った料理はどれほど小さな破片であっても見つけ出し、心の中で「だって苦手やし」と弱音を吐きます。
ほかにも様々な「やらないほうがいいこと」さらには「やったほうがいいこと」に私はすぐ「だって」という言葉を引っ張り出しては自分の意思を貫こうとしてしまいます。
この「だって」という言葉はある意味では便利な言葉だと思います。
手っ取り早く提案や意見を遮断したり、言葉にし難い感情を簡単に、分かりやすく言い表したりすることができるからです。
今朝の聖書の箇所には「あなたたちは、人に自分の正しさを見せびらかす」とあります。
本来の良し悪しは分かっていても、自分を善だと信じてしまいたくなることは幾度となくあります。
そんな時には、私はこの清和で出会った聖書箇所を思い出したいと思っています。
私の行いや考えは、神さまがどう受け取るでしょうか。
「だって」と浮かんだ考えのままに、言葉や振る舞いを表に出していいのでしょうか。
神さまはそんな私たちの意思や心の中を見ておられます。
ただ、それらを完全な悪だと跳ねのけずに私たちがより良い選択をできるよう見守っていてくださっています。
私たちは「こうすべきだと教えられる認識」と「それに伴った黙認される一般的・または私的な見解」のあいまいな間で生きています。
「だって」という言葉が浮かんだ時には頭の中を一度休ませて、私たちが受けた教えを思い出したいと思います。
大切だと認識されている事柄は、どこかで誰もが教えられているはずで、意味のあるもののはずです。
それを自分の意思で選び抜けるかどうかは、自分の中に浮かぶ、「だって」との戦いとも言えます。
直面した事柄と真正面から向き合うことで、「だって」を打ち消すことができ、大きな態度ではなく、謙虚な姿勢でどうするべきかを選択できるかと思います。
その絶えず向き合おうとする謙虚な面こそが、私たちに求められる行動だと今日の聖書箇所から学びます。
自分を飾らず、ごまかす心もなく、日々の生活を歩んでいきたいと思います。