礼拝の話

2024/09/10 

9月6日(金) 聖書 コリントの信徒への手紙 12章21節 国語科 高橋

私は、パラリンピックに関心があります。

先日「ブラインドサッカー」の予選ラウンドの試合をテレビで見ました。

結果は、1対0でアルゼンチンの勝利でした。

「ブラインドサッカー」は、フットサルをもとにルールが考案されたスポーツで、視覚を完全に閉じた状態で転がると音の出る特別なボールを使ってプレーします。

味方や相手の声がけが必ずあり、監督やゴールキーパー、ガイドがしっかりサポートしていますし、選手も、指示をよく聞き、感じて、判断しています。

選手以外にも、びっくりするくらい多くのスタッフがかかわって、支えあってこのスポーツが成立しています。

何より驚いたのは、ボイストレーナーが存在することです。

それくらい、言葉、声というのは、大切な情報なのだということをあらためて感じさせられました。

このチームの新生ボイストレーナーが、「ブラインドサッカーを始めて変わったこと、よかったこと」として、次のように語っています。

「視覚障がい者の方との心の距離が大きく縮まった。普段、街を歩いていても気軽に視覚障がい者に声をかけられるようになった。選手たちとの取り組みや、成長を見ていて、『~してあげる』という上から目線ではなく、尊敬の念を抱くようになった。」

この言葉にはっとし、こういう感覚をもって生きていきたいと思いました。

障がいのある人は、弱者として認識されがちですが、ブラインドサッカーの選手たちを見ていると、私にはとうてい及ばない身体、そして精神力があることを実感します。

今朝の聖書の箇所では、一人ひとりの個性や働きの違いが、身体のそれぞれの部位の働きにたとえられています。

それぞれの部位が違う働きで体を形成し、組み合わさっているように、私たちも個々の違う存在として共に生きています。

私たちは、「みんな違う」ということを理解しているつもりでいますが、頭では理解しているつもりでも、その理想どおりにはいきません。

現実では、自分のものさしで、つい、かたよったとらえ方、自分優位な価値観を持ちだしやすく、それぞれの「違い」を豊かに生かし合うのではなく、むしろ他者を見下したり遠ざけたりする現実があることが、私たち人間の姿でもあることは否定できません。

しかし、違いをバランスよくとらえて、歩んでいくことが、豊かな人生につながるのだと思います。

聖書の言葉はそれを教えてくれていると思います。

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