礼拝の話

2024/09/12 

9月9日(月) 聖書 マルコによる福音書 4章1~9節 校長 小西二巳夫

人間の持つ感情「喜ぶ・怒る・哀しむ・楽しむ」を「喜怒哀楽」と言います。

母は「喜怒哀楽」が実にはっきりとした生き方をした人でした。

その母から思い出されるのがイエスです。

イエスもまた喜怒哀楽のはっきりとした生き方をした人でした。

たとえば、イエスもよく人を怒らせました。

怒らせた相手は、政治的権力者、宗教の専門家など、弱い立場の人を下敷きに生きる人たちでした。

イエスがその人たちを怒らせた場面、悲しむ人を慰め寄り添うために泣いた場面、楽しいことが好きだっただろうことは福音書の話からよくわかります

けれど笑ったかどうかについては、はっきりと書かれた箇所がありません。

それもあってイエスは笑わなかった、ひたすらまじめな人であったと考える人もいるわけです。

イエスは自分のために泣きませんでした。

自分のために腹を立て怒りませんでした。

自分のために楽しみを求めませんでした。

イエスは悲しむ人と共に泣き、苦しむ人のために怒り、他の人を楽しませました。

イエスが笑ったとすると、それは誰かのための笑いであったということです。

今日の場面でイエスは「種を蒔く人」をたとえに話されています。

「たとえ」は他のことにたとえることによって、よくわかる、深く心に残るからたとえなのであって、このたとえは、聞かされている方は何のことかよくわかりません。

実際に作物を作っている人たちからすると、きちんと育たない場所に種を蒔くことはあり得ないことですが、イエスはそのような場所に種がまかれたら、とうことを話します。

それによって、クスクス笑いが起こり、笑いが全体に広がり、笑いと共に人々の緊張状態は緩み、群衆も興奮状態から解放されたと思われます。

人々は笑うことによって、連続のライブ活動でイエスが相当疲れていることに気づき、自分たちも疲れているのが、興奮状態のために気づかなかったこと、そして冷静になって今自分たちがしなければならないのは何か、それは地元に帰り、きちんとした日常生活を過ごすこと、そこに神の守りがあることを思い出すことになったはずです。

イエスはそれを今週土曜日に体育大会を行う、清和学び清和に働く私たちにも気づかせてくれているのです。

しかもイエスはそれを直接的な言葉で言いません。

ちょっとズレたたとえ話をすることによって、人々に気づかせたのです。

笑いを引き出すたとえ話によって行ったわけです。

そう考えると、イエスは人を笑わせるお笑いのプロだと気づかされます。

笑いのプロは人を笑わせるのであって、自分では笑いません。

イエスは私たちをクスッとさせることによって、今週の学校生活の1つ1つに心静かにていねいに取り組むことを願っておられます。

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