礼拝の話

2020/09/11 

9月11日(金)聖書 ヨハネによる福音書 6章51節 理科 岡村

先月大学の後輩が亡くなりました。

私はこの一ヶ月、後輩の死を受け入れることができませんでした。

考えると辛くなってしまうのに、今回この話をしようと思いました。

なぜこの話をしようと思ったのかは分かりません。

けれどもこの出来事の中に、私が今話をしないといけないことが何かあると思ったからです。

そこで彼の25年間を私なりに見つめなおすことにしました。

キリスト教はこの世界を旅人として生きることを考えます。

25歳まで生きた人は25年間この世界で旅をした。

85歳までいきた人は85年間この世界で旅をした。

その旅が年数ではなく、どのようなものであったか。

彼の25年間の生き方を否定的にとらえるとどうなるのでしょう。

若くして志なかばでかわいそう。

もっとやりたいことがあっただろう。

しかし彼の生き方を、肯定的に受け止めるとどうでしょう。

彼は与えられたタラント(能力)を精一杯使いました。

充実した高校生活を過ごし、県外での大学生活を送りました。

バイトや大好きなソフトボールに出会い、練習や試合をしました。

そして将来教員になるのだという夢をもち、かなえ、たくさんの友人や仲間に恵まれました。

そうすると、よい人生をすごしたかどうかは、長い短いといった長さで決まることではないということになります。

その人の人生がどうであったか。

それはその人がどのように生きたかで決まってくるとすると、彼の25年間がたくさんの出会いに恵まれていたことがわかります。

今日の聖書箇所には、「命のパンであるイエスキリストを受け入れると永遠の命にいきることができる」と書いてあります。

この聖書の話によって彼のことを考えると、次のようになります。

亡くなったということは、私たちの目に見えなくなったというだけで、存在そのものが消えたのではないのです。

亡くなったということは、1つの見方にしか過ぎないというのが聖書の考え方です。

少なくとも、彼の存在は私たちの心の中、生活の中に今も生きています。

これからも彼に関係した人たちが集まったときには必ず彼の話が語られるはずです。

そう考えると彼は今日の聖書にかかれている永遠の命に入ったということです。

今までとは違う形でこれからもいきいきと生き続けることができるといえます。

このことに気が付かされるためにこの話をしないといけなかったのだと気づきました。

学校生活の様子

学校生活|中学校一覧へ

学校生活|高校一覧へ

学校生活一覧へ

礼拝の話一覧へ

中学・高校 学年の通信から一覧へ

クラブ活動一覧へ

▲ページトップへ