礼拝の話

2022/09/14 

9月12日(月) 聖書 ルカによる福音書 24章13~16節 校長 小西二巳夫

「ブランケット・キャッツ」という小説があります。

ブランケット・キャッツという言葉を日本的に表現するとレンタルネコです。

小説に登場するレンタルネコ、通称タビーはふとしたことから借り主のもとから逃げ出します。

それは心の奥底から聞こえてくる声を聴いたからでした。

「俺たちは海を渡って長い旅をしてきた。忘れるな。思い出せ。俺たちは荒野を西に進んだ。幼い旅人のそばに寄り添って、岩山を越え、川を渡り、砂嵐の中を進んだ」。

タビーはレンタルネコとしての生活を6年余り続けてきて、このままの自分でいいのだろうかと、ふと疑問がわいてきたのです。

そこで心の奥底から聴こえてきた声に従って旅に出たのです。

一台のトラックの荷台に乗り込むとそこには離婚をして遠く離れたところに住む母親に会おうと、無断でトラックに乗り込んでいたサトル君とエミちゃんという兄妹がいました。

兄妹の会話から徐々に事情を理解し始めたタビーは、自分がもし人間の言葉がしゃべれるなら次のように言ってやりたいと思いました。

「サトル君、みんな一人きりなんだよ。一人きりで生きていくんだ。人生が長い旅なら、その旅は、やっぱり一人旅なんだよ」。

この話は「一人きり」ということと「一人ぼっち」は似ているようで、まったく違うことを、そして「寄り添う」ことと「すり寄る」ことの違いを教えてくれます。

さらに「一人ぼっちと一人きり」と「寄り添う、すり寄る」ことの、本来あるべき関係を教えてくれます。

一人ぼっちというのは、誰かと一緒にいたいのに一人になってしまう、孤立することです。

一人ぼっちになりたくない、孤立するのは嫌だと恐れたときに、人はしばしば誰かにすり寄っていこうとしますが、そのことが良い結果をもたらすことはあまりなく、かえって孤立を深めることになります。

そこで忘れてはいけないのが、トビーが言うように、人は誰でも一人きりの人生を歩む存在であることです。

一人きりの人生を歩もうとする、そこに生きる道が拓かれていくというのです。

しかも、その道には必ず寄り添ってくれる存在が出てくるということです。

今日の聖書にはヱマオという町に向かって歩く二人の人が出てきます。

彼らは自分たちの人生の希望だと信じていたイエスがエルサレムの町で十字架にかけられて死んだのでひどく落ち込んでいました。

二人はこれから何を頼りに、誰に頼って生きていけばよいのかわからなくなりました。

まさに一人ぼっちにされたように思えて、エルサレムから逃げるように出てきたのです。

二人と途中から一緒に歩き始めた人がいましたが、彼らには誰なのかわかりませんでした。

けれど、夜になり一緒に食事する時になって、イエスだということがわかりました。

その出来事を体験した彼らは、逃げ出したエルサレムに戻っていきます。

その意味は、彼らは一人きりの人生を歩き始めたということです。

二人は一人きりの人生に、目に見える、見えないに関係なく、必ず寄り添ってくれる存在がいるということがわかったのです。

その後、二人がどのように生きたか、聖書には書かれていません。

けれど、彼らがいきいきと生きただろうと想像できます。

さらに彼ら自身が、一人きりを生きる人に寄り添う存在になったことも想像できます。

寄り添うこととすり寄ることはまったく違います。

清和で学校生活を過ごす中で、しっかり気づきたいのは、一人きりを生きることにこそ、自分の道が拓かれていくことです。

誰かにすり寄る必要はないのです。

そのあなたに必ず寄り添ってくれる存在がいることを忘れないことです。

さらに、今寄り添ってくれる存在が誰かわからなくても、あなた自身が誰かに寄り添うことはできるはずです。

そのことにしっかり気づくならば、新しい1週間を過ごすエネルギーが出てきます。

学校生活の様子

学校生活|中学校一覧へ

学校生活|高校一覧へ

学校生活一覧へ

礼拝の話一覧へ

中学・高校 学年の通信から一覧へ

クラブ活動一覧へ

▲ページトップへ