清和女子中高等学校。創立113年の高知県の私立女子校。キリスト教主義の中高一貫校です。
2022/09/16
今日は私の友人の一人をご紹介させていただきます。
神学校で一緒に学んだ、年齢がわたしよりも一つ上の方です。小学生の時から彼のことを知っていました。彼は小学生の時から車椅子に乗っていました。
彼がなぜ車椅子に乗っているのか、私は当時あまりピンときていませんでした。彼の抱えていた病気は、「デュシェンヌ型筋ジストロフィー」です。全身の筋肉が衰えていく難病です。
筋力の低下は、呼吸や血液循環などの生命維持にも関わる器官に影響するため、患者をやがて死に至らせる病です。彼は24時間、人工呼吸器を付けて生活し、自身で動かせるのは指の親指だけでした。
彼は18歳の時、「35歳までの命」と余命宣告を受けました。この余命宣告の後は、神さまへの祈りの中で、「神さま、なぜ35歳で死ぬ難病を与えたのですか」と本音をぶつけることしかできなかったと言います。その中で彼はヴィクトール・フランクルの「夜と霧」という本に出会います。この本はフランクルがナチス・ドイツによって入れられた強制収容所時代の経験を基にして書かれた本です。
この本から「苦しみの意味を見つけられなければ、絶望となる。しかし、苦しみに意味を見つけられれば希望となる。」ということを教えられたのです。そして、難病でも神さまが生きる意味を与えてくださるということを確信して生きるようになったのです。そこから彼はご両親の協力の下、神学校で聖書を学び、全国各地の教会を回りながら講演をするようになりました。
「この病は神さまが与えてくれた」、「この難病によって、生きる意味を語ることができる」彼は笑顔でそう語ります。普通このような言葉が言えるでしょうか。私は震えました。彼は一日の大半をベッドに横になって過ごします。呼吸がうまくできなくて、一日に3時間しか眠れないそうです。それでも彼は、自分の身を削りながらでも人生の喜びを伝えるのです。
今日、読んでいただいた聖書の場面は、夫を失った女性が、自身の子ども二人も連れ去られようとしている過酷な状況です。このようなことが平然と行われている倫理的に腐敗している時代でした。彼女の財産は油の壺一つしかありません。明日生きていくこともできないような状況です。そこで彼女は、神の働きをしていたエリシャという人物に助けを求めます。すると、エリシャは、近所から空の器をたくさん借りてきて、油を注ぐように命じました。彼女はその通りに行いました。
普通に考えたら、何個目かの器で、油はなくなってしまうはずです。しかし、油はなくならず、近所から借りた沢山の器がすべて満たされるまで、瓶から油が注がれたのです。これは神さまが与えてくださった奇跡というほか、説明することはできません。どんなに小さい者でも、神さまは何倍にも用いてくださいます。明日の生活も分からない絶望の中にいた女性の財産が、溢れるほどに満たされたのです。
難病を抱え、余命宣告を受けた彼も、各地で希望を語るために、何倍にも用いられました。私たちもそうです。この自分に何ができるだろうか、そう思って当然です。すぐに答えが見つかるわけでもありません。それでも、僕らの器に価値がないなんてことはない。
小さい者でもいい。神さまは私たちの器を何倍にも、溢れるほどに用いてくださいます。その事実に目を向けたいと思います。
今日も私たち一人ひとりが、自身の中にある価値に気づくことができますように。