礼拝の話

2021/09/22 

9月22日(水) 体育大会 聖書 ヨハネによる福音書 16章33節 校長 小西二巳夫

「あ~あ、運動会のない国に行きたい」。

もしそんな国があったら、私も行きたいと共感する人、いると思います。

実はこの言葉はまんざらありえないことではないのです。

というのは、世界中のほとんどの国には学校運動会がないのです。

学校運動会を当たり前のように行っているのは日本くらいです。

明治政府は西洋の強い国に負けない国にするために、国民全体の体と心を鍛えないといけないと考え、これからの国を背負う子どもの体と心を鍛えるために、学校運動会を取り入れたのです。

時代は変わりましたが、学校運動会には何となくそういう雰囲気が今も残っているような気がします。

中高の運動会を、競争社会で勝つ人になるための訓練の場と考える人がいます。

汗を流して厳しい練習に耐え、仲間と力を合わせて目標に取り組み、勝利に向けて全力を尽くす。

それによって、勝つことの喜びや共に力を合わせることで湧き上がってくる感動を知った人になる。

学校運動会にはそういう空気があります。

ですから、練習の時、失敗したり気を抜いた動作や態度をとったりすると、先生や上級生から厳しい言葉をかけられることになります。

清和が運動会に取り組むのは、そういう考え方とは少し違います。

何より運動会も他の日と同じように礼拝に始まり礼拝に終わります。

礼拝は心静かに神と向き合い、そして自分と向き合う時間です。

礼拝から始まる清和の運動会がどのようなものか、何を目的に行われるのかを表しているのが、先ほど読んでもらった聖書の箇所です。

イエスは長い話を弟子たちに聞かせ、その話の最後で弟子たちを前に「わたしは既に世に勝っている」と勝利宣言をしたのです。

勝利宣言というのは勝負に勝った時にするものです。

しかし、この時点では何も終わっていません。

それどころか、イエスはこの後、権力者につかまり十字架に架けられ殺されてしまいます。

勝利するどころか負けてしまう、弟子の裏切りにより完全に敗北するのです。

イエスはイスカリオテのユダが裏切ることも、自分が十字架に架けられて死ぬことも分かっていました。

それにも関わらず、勝利宣言をしたのです。

イエスはこの勝利宣言と通して何を伝えたかったのでしょう。

この聖書の箇所をベースに作られたのが、さきほど英語と日本語で歌った讃美歌471番です。

タイトルは「勝利をのぞみ」です。

「勝利」という言葉が英語のどの単語にあたるかというと「overcome」です。

Overcomeをそのまま訳すと「~を超える・乗り越える」となります。

自分の前にある辛いこと、悲しいこと、嫌なことから逃げるのではなく、乗り越えるようにして前に進んでいく、それが人間にとって本当の勝利、打ち勝つということだと歌っているのが賛美歌471番です。

つらい状況にあるあなたに、十字架の死から復活したイエス・キリストの愛の力が必ず働くというのがキリスト教です。

運動会が苦手という人、嫌いな人の中にも、競争社会を生き抜くためには弱いままではダメだ、強くならないといけないと考えている人がいるのです。

そして、勝てない自分が嫌で受け入れることができないという場合があるのです。

今日の聖書の言葉、讃美歌471番は、そのような価値観や先入観をovercomeすること、乗り越えることをすすめているのです。

自分を縛っている狭い価値観から自由になることで、どれほど生きやすくなるのか、ということを教えてくれているのです。

それを自分の心と体で知った人になってもらうために、清和は運動会をしているといっても決して言い過ぎではありません。

1つ1つのプログラムに自分が取り組むことができたら、1つ1つの競技がスムーズに進むように、自分の心と体を使うことができたら、それがまさに「We shall overcome」になります。

ぜひ、今日をOvercomeを実感する1日にしていきましょう。

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