清和女子中高等学校。創立113年の高知県の私立女子校。キリスト教主義の中高一貫校です。
2024/08/07
清和の2024年度の生き生きとした歩みは「まことに残念ですが…」で終わらず、そこからから始まっています
「まことに残念ですが・・・」
しばらく前のことですが、思わず突っ込みを入れたくなる貼り紙を見ました。「誠に残念ですが、本日は臨時休業させていただきます」。この場合「誠に残念」ではなく「誠に申し訳ありません」と書くのがふつうです。そこで思い出したのが「まことに残念ですが…」というタイトルの本です。これは出版社に持ち込まれた作品が売れないと判断されて、返却される時に同封された断り状を集めたものです。しかし、それらの本は後に世界的な名作や大ベストセラーになりました。後にノーベル文学賞をもらうパール・バックの「大地」の断り状には次のようなものでした。「まことに残念ですが、アメリカの読者は中国のことなど一切興味がありません」。他にも「将来性ゼロ」「残念ですが10冊も売れないでしょう」などが続きます。「まことに残念ですが…」の断り状には作品へのリスペクトややさしさがありません。このように「残念」を期待通りにならなかった、何かが足りなかった、という出来事の悪い結果に使うことが多いのです。
ざんねんないきもの事典
ところが「残念」を違うニュアンスで使うこともあるのです。それがよくわかるのが「ざんねんないきもの事典」です。これは17年前に出版されたのですが、人気が出てシリーズ化されています。私の好きな残念は「最強の肉食恐竜であるティラノサウルス」の話です。化石を調べる中でティラノサウルスが痛風に罹っていることがわかってきました。痛風は尿酸という物質が体にたまり、歩けなくなるなど激しい痛みを伴う病気で、ビールなどの飲み過ぎや肉ばかり食べることによって罹ると言われます。病気になるのは98.5%が男性です。そこで痛風は「オジサンの病気」と呼ばれます。がんばって働くオジサンがストレスを発散させようとビールを飲み過ぎたために罹る痛風に、最強の肉食恐竜ティラノサウルスも罹っていたと知ると、オジサンとティラノサウルスには「まことに残念ですが?」笑いそうになります。少しは野菜も食べて体を労わってね…と声をかけたくなります。このように「残念」は相手を切って捨てるのだけでなく、やさしさや愛おしさの心と目を持つ言葉でもあるのです。
残念な弟子ペトロ
聖書に登場する残念な人の代表がペトロです。ペトロはイエスが自分を裏切る弟子がいること、そのために死を覚悟していると語った時、私も一緒に死んで見せますと大見えを切りました。そのペトロにイエスは「お前は鶏が鳴く前に私を三度知らないと言うだろう」と告げられました。実際それをしてしまって、鶏の鳴き声を聞いた瞬間、ペトロは我に返り、裏切った情けなさと恥ずかしさで顔を上げられなかったはずです。けれどその自分を、イエスがゆるしの目で見つめていることに気がつきます。
断り状を集めた本「まことに残念ですが…」がおもしろいのは、話が残念との結果で終わらないことです。断り状を受け取った作家は原稿を書き直すなど、さらにいい作品にするきっかけにしています。それが世界的な名作やベストセラーを生みだすことに繋がりました。ペトロも同じです。イエスを裏切るという残念なことをしたペトロですが、「残念な弟子」の自分だからこそできることがあることに気づかされました。その後のペトロの働きによって、たくさんの人たちがそれまで縛り付けられていた苦しみや悲しみから解放され、与えられた人生を自分らしく生きることができるようになっていきました。
残念な出来事に直面している清和
清和も来年度の生徒募集停止と3年後の閉校という残念な出来事に直面しています。募集停止と閉校を知らされた人の受けとめ方はさまざまですが、共通しているのは「残念」なことになったとの思いです。自分の学んだ学校が、我が子の学校が、120数年の歴史の学校が、高知で唯一のキリスト教学校がなくなるわけですから、残念な気持ちになるのは当然です。しかし清和はキリスト教学校です。キリスト教を信じるとは、イエスがゆるしの目で私たちを受け入れてくれていることを知った人になることです。
そして、今私に私たちに一番求められるのは、残念なことが起こったとしても、それが終わりではなく、その後があること、そこからは道が拓かれることを前もって知った人になることです。そして「まことに残念ですが」で紹介された本と、残念な弟子ペトロによって大逆転劇が起こったように、主が私たちの思いを超えた何かを起こしてくれると考えると、これからの一日一日が希望にあふれたものになります。
