礼拝の話

2025/09/04 

日本基督教団土佐教会 成田信義牧師

聖書 マタイによる福音書 11章28~30節

先月、2週間の夏季休暇を過ごし、連れ合いの両親が済む栃木県に滞在してきました。
単に仕事を休むということだけでなく、自分や家族のための時間を過ごしたり、自分自身を見直したり、心身ともリフレッシュできました。
今朝の聖書の箇所でイエスは「休み・安息」について、自らが安息になる宣言をします。
人は良い事があれば一緒にいますが、苦しくなる人とはいたくありません。
けれども、「それでもなお共にいる」、これが神の愛です。
つまり、神の愛の表すのはイエスご自身だからということです。
「軛」とは家畜が荷車や犂を引く時に2頭の首をつなぐ横木のことです。
イエスの軛を負うとは、神の愛を表すイエスと共に背負うということです。
イエスに学ぶとは、神の愛に応えつつ生きるということです。
「あなたの重荷を一人で負わなくてよい。神の愛によって私が一緒に背負っていこう」という招きです。
重荷が取り除かれるのではありません。
イエスが共に重荷を担ってくださると、なぜ「安らぎ・安息を得る」のでしょうか。
それは、たとえ、周りに認められなくても、今の自分をそのまま愛される場所があることを知るからだと思います。
重荷でしかなかった失敗や挫折に、意味があることを知るからです。
だから、重荷は変わらなくても荷が軽くなり、「安らぎ・安息」を得るのです。

 

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