礼拝の話

2024/11/28 

11月18日(月) 聖書 ヨハネによる福音書 11章32~35節 校長 小西二巳夫

清和の先生は交代で毎朝のチャペル礼拝で話をします。

先生たちが話をする時の約束事があります。

たとえば、教える話、つまり上から目線の話はしないことです。

自分が今大事に考えていることを素直に話すことです。

ええ歳をした私のようなじいさんやおじさん、おばさんが、そして兄さんや姉さんが大勢の人を前に言うのです。

「私は神さまを信じます。」「私はイエスさまによって「生きる力」を与えられました。」

こういうことを恥ずかしげもなく、素直に話すのです。

さらに、私はこんな失敗をしましたと素直に語ることもあります。

それが清和のチャペル礼拝の時間です。

そこで気づくのは、そのような大人はどこでもいそうなものですが、実際はなかなか出会えないのです。

特に学校という場所で、出会うことはまずありません。

少なくとも私が学校に通っている時には、そのような出会いはありませんでした。

もし私が学校でそういう人に出会っていたら、学校が大嫌いではなく、少しは好きになっていたはずです。

田島列島という漫画家の作品に「子供はわかってあげない」があります。

主人公の美波は怪しくどこかヘン、けれど素直さを持った父親との出会いによって、素直さが引き出され、人として成長をしていきます。

清和で学校生活を過ごすことは、美波と同じチャンスが与えられているということでもあります。

それにしても、清和の先生はええ歳をした大人にも関わらず、なぜ素直でいられるのかです。

それは、イエスに出会っているからです。

イエスを中心に置く学校にいるからです。

今日の聖書箇所は、死んだラザロと弟ラザロの死を前にしたマリアとマルタを見て、実に素直に泣くイエスが描かれています。

そして、そこにいた人々はそのイエスと接することで、生きる力と希望を与えられたと書かれています。

清和の先生がなぜ素直に自分を出し、素直に話すことができるのか、なぜ恥ずかしげもなく自分の失敗を語ることができるのか、理由は1つです。

悩んでいる人や苦しんでいる人と共に悩み苦しみ、そして共に笑い喜んでくれる自然体のイエスに出会っているからです。

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