礼拝の話

2022/11/09 

11月7日(月) 聖書 使徒言行録 27章33~36節 校長 小西二巳夫

大泉洋演じる水縞さんが出演する北海道の洞爺湖の湖畔に建てられた「カフェ・マーニ」というペンションを舞台にした映画に「しあわせのパン」というものがあります。

カフェ・マーニにはいろんな事情を抱えた人がやってきます。

冬の夜に来た坂本さんとアヤさんいう老夫婦の話です。

いろいろなことがあり2人の思い出の場所である洞爺湖で死ぬつもりでやってきたのです。

坂本さんたちがカフェ・マーニに着いたのは猛吹雪の夜で、体調の悪いアヤさんは疲れ切って、意識も確かではありませんでしたが、水縞さんの焼いた「うぐいす豆」の入ったパンの香りに気づき、引き寄せられるようにカウンターに近づき、パンを手に取って、いきなりガブリとかぶりついたのです。

坂本さんは食欲を失ったアヤさんが長い間パンを食べるのを見たことがありませんでした。

アヤさんはパンをほう張りながら「おいしい。お豆さんの入ったこのパンおいしいなあ」「私、明日もこのパン食べたいなあ」と。

坂本さんはアヤさんの「おいしい」の一言によって、もう一度生きようと決心します。

この場面から「おいしい」という言葉や感覚の持つ力、大切さがわかります。

私は去年の12月頃から、体調の関係で毎日ある薬を飲んでいることの副作用と思われますが、熱いものを食べてやけどしたような時の感覚が舌にいつもありました。

9月の初め頃、ハッと気づきました。

食べたものの味はするけれど、おいしいと思うことがなくなっているということです。

食べておいしいというのは、頭の中で考えるのではなく、体の中から湧き上がってくる感覚ですが、その感覚がなくなっていることに気づいたのです。

そういえば、そのことに気がつくしばらく前から、私は一人で食べる時は、これは多分おいしいのだろうと思って食べていました。

私にとって、食べたものがおいしいかどうかは、いつの間にか、お腹の中から湧き上がってくる感覚ではなく、記憶で考えるものになっていたのです。

おいしいという感覚がなくなると、食べたいという気持ちにならないので、当然体重は減っていき、映画「しあわせのパン」に登場するアヤさんと同じように、生き死に関わる問題になります。

そこで、それまでの自分を考えてみました。

私が体の中から「おいしい」という感覚が湧き上がり、それを言葉にするのはどういう時だったのかを考えてみました。

「おいしい」という言葉には、当然、その食べ物が出されるまでに関わる料理をする人、材料を運ぶ人、生産してくれた人への感謝、そして神への感謝も含まれています。

だから食べる前に感謝の祈りをするのです。

おいしいという感覚がほとんどなく、それが回復するのか、それともこれからもずっとそうなのかわからなくなった時、おいしいという感覚を、その時その時の自分の都合によって感じるのではなく、それをその食べ物が目の前に出された時に、心から感謝して食べることのできる自分になる、そのようなセンサーを養うことが、何より自分の命を守る、生きる力になることに気づかされたのです。

それに気づかれた時、今までとは違う感覚で、少しずつおいしいと感じられるセンサーが働くようになってきました。

新型コロナウィルスの感染を防ぐ手段として黙食することが求められています。

黙食だからおいしくないと、食事が楽しくないと思う人がいますが、黙食を求められる今だからこそ、しっかりできることがあります。

それは、その食べ物が目の前に出てくるまでに関わった人たちのことに思いめぐらすことです。

関わった人たちをよりリアルに考えられるようになれば、目の前の食べ物に対して舌やお腹の中のセンサーは、自分の味覚を超えて、おいしいとの信号を送ってくれるのです。

その食べ物が間違いなくしあわせな味、しあわせなパンになり、自分を生かしてくれる、今日を生きるエネルギーになるのです。

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