礼拝の話

2024/06/04 

5月24日(金) 聖書 ヨハネによる福音書 3章16節 英語科 畠中

先日、たまたま入ったお店の中に高知の土産物のコーナーがあり「土佐弁手ぬぐい」と言う名前の手ぬぐいを見つけ、買い求めて、家で広げてみました。

手ぬぐいには毛筆の字体で、いくつかの土佐弁とその土佐弁の意味が書かれていました。

手ぬぐいに書かれていた土佐弁の中には、最近は全く使うことも聞くこともなくて、私自身すっかり忘れていたものもありました。

だから、そうだ、こんな土佐弁、確かにあった、懐かしい、と最初は嬉しくなったのですが、その内に少し寂しくなりました。

なぜ寂しくなったかと言うと、使うことも聞くこともなく忘れられた言葉は、次第に思い出されることすらなくなり、やがてその言葉の存在そのものが消えてしまうかもしれないという気がしたからです。もしそうなったら、それはとても寂しいことです。

そう思った瞬間、私は、かつて自分の周りにいた大人たちのことを思い出しました。

私は、生まれてからずっと、県外の大学に進学するまで安芸市で暮らしていました。

この、私の周りにいる大人たちには共通していたことがありました。

それは、彼らは皆、今ではすっかり聞かれなくなった「これぞ土佐弁」と言えそうな、強烈で濃い土佐弁を話していたということです。

彼らの声や表情や話しぶりが、土佐弁と共に、今でも鮮やかに私の心によみがえります。

今こうして、自分がその頃の大人と同じくらいの年齢になって振り返ってみると、その人たちが口にしていた土佐弁が、どれほど私を心配して発せられた言葉であったか、また、どんなに私を大切に思ってかけてくれた温かな言葉であったかということがよくわかります。

当時の若かった私は全く自覚してはいませんでしたが、実は周りから愛され見守られ幸せに過ごしていたのです。

そう思うと、今更ですが、本当に嬉しくて感謝の気持ちがわいてきます。

こんなわけで、土佐弁は私に大きな幸福感を与えてくれますが、それは聖書の言葉も同じです。

聖書には神さまの言葉がたくさんあります。

中には厳しい言葉もありますが、どの箇所も神さまの、私たち人間への深い愛にあふれています。

「みてる」という土佐弁があります。

「物が無くなる」「人が亡くなる」という、漢字も意味も違う言葉ですが、どちらも同じ音の「なくなる」という言葉が、土佐弁になると「みてる」というのです。

しかもこの「みてる」の漢字は「なくなる」とは逆の意味の「満ち溢れる」とか、「満ち足りる」という言葉に使われる満足の「満」の字を当てるそうです。

なぜ「満」という字を、まったく逆の意味の言葉として使うのか。

そのいきさつは定かではないそうですが、なくなるのに満ち溢れるだなんて、なんだか聖書の教えに通じるように思われて、私にとっては好きな言葉です。

神さまからいただいた命を一生懸命生きることは、まさに命を満ち溢れさせることです。

今日も、神さまに愛されながら一生懸命生きていきたいと思います。

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