礼拝の話

2024/06/04 

5月27日(月) 聖書 ルカによる福音書 10章30~39節 校長 小西二巳夫

銀色夏生(ぎんいろなつを)という詩人で小説家がいます。

作詞家としても有名な人です。

銀色夏生の作詞の特徴に、短い言葉で情景をその場面を描くというのがあります。

その1つにかつて大ヒットして、今もいろんなミュージシャンがカバーする曲「そして僕は途方に暮れる」があります。

「途方に暮れる」は、突然のことで、どうしてよいのかわからない、そのようなニュアンスを持つ言葉です。

今朝の聖書の箇所には、突然のことで、どうしてよいかわからない、まさに途方に暮れた3人の男の人が出てきます。

事の発端は、当時の社会の絶対的ルールの律法の専門家が、自分たちとは違う考え方のイエスが許せなくて、みんなの前で恥をかかせるために「私たちが永遠の命を得るにはどうしたらいいでしょうか」と質問をしました。

ところが、イエスは「あなたはどう考えるのか」と質問に質問で返したのです。

質問に質問で返す、これはルール違反です。

もし律法の専門家が冷静であったら、それを指摘したはずです。

けれども彼は何とかイエスをやり込めたいと焦っていたようです。

律法の専門家は、全力で神を愛し隣人を自分のように愛することだと答えました。

それに対してイエスは、それでよろしいと言われました。

そう言われて、律法の専門家は自分がイエスのペースにはめられたと気づいたのか、マウントを取り返そうとしたのか、慌ててもう一回質問をしたのです。

「わたしの隣人とは誰ですか」。

この質問にイエスがたとえ話を始めたのが今日の聖書箇所です。

イエスは、その道のある場所で瀕死の重傷者が倒れているのを見て、3人の男の人たちが考えたこと、そしてかれらが取った行動がどのようなものであったのかを説明しました。

その上で、誰が一番人間らしい人間であるのか、つまり隣人愛を持った人かと、律法の専門家に質問をしたのです。

祭司、レビ人、そしてサマリア人。

サマリア人だけが、「憐れに思い」によって瀕死のユダヤ人を助けました。

「憐れに思い」とは単に可哀そうだからという意味ではありません。

ギリシャ語の「憐れに思い」は自分の意志とは関係なく、何かに共振共鳴して「腸がねじれるように痛む」という意味から出てきた言葉です。

英語の聖書では「憐れに思い」は「ウイズ・コンパッション」と書かれています。

コンパッションは、他の人が持っている痛みや苦しみに、助けたいとの気持ちを持つだけでなく、それを具体的な行動に移すとの意味があります。

サマリア人は瀕死のユダヤ人を見た時、自分の意志に関係なく、腸が捻じれるように痛み出したのです。

そして自分の腸の痛みを抑えるためにはユダヤ人を助けるしか方法がないのです。

言い換えると、瀕死のユダヤ人を助けるのは自分のためであったということです。さらに律法の専門家の最初の質問の「永遠の命を得る」の答えである、自分が人として生き生きと生きるためであったということです。

ということは、私たちが自分の人生を自分らしく生きるためには、その人生を豊かに喜びを持ったものにするためには、他の人の痛みに共振しない共鳴しない、としたら、その願いは実現できないと言うことになります。

自分のことを本当に大切に考えるなら、他の人の痛みに共振しない共鳴しないとは、無関心であってはならないと、イエスは語りかけ呼びかけているのです。

イエスは、そのことをサマリア人の話を通して、律法の専門家ではなく、今この時代に生きている私に語りかけているのです。

イエスの呼びかけに応えることのできる自分でありたいと願います。

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