清和女子中高等学校。創立113年の高知県の私立女子校。キリスト教主義の中高一貫校です。
2024/02/02
シェル・シルヴァスタインという人が書いた絵本に「大きな木」という本があります。
この本は38か国語で翻訳され700万部の世界的なベストセラー作品です。
絵本の内容は、少年とリンゴの木の対話で進みます。
少年との対話のあと、リンゴの木の思いが「木はそれでうれしかった」と書かれます。
歳を重ねる少年とリンゴの木、最後は切り株になりますが、「木は幸せでした」とあります。
私は最後の「木は幸せでした」にドキッとしました。
木は自身のほとんどの部分を少年に与えました。
それでも木は幸せだったということに、大きすぎる愛を感じました。
それから私はこの絵本の話が頭から離れなくなりました。
少年はどういう気持ちだったのだろう、木がしたことは過保護すぎる事ではないか、この本が伝えるのはもらえるものは取りつくせなのか、与えつくすことの美しさなのかなど考えましたが、結局、私は木のようなことができるのだろうか、という問いに行きつきました。
すべてを見返りもなくささげることができるだろうかと思いました。
人は必ずと言っていいほど見返りを求めてしまうと思います。
人に感謝されなくてもいい、親切で自分がやったことを相手が何の感謝もせず、受け取るのはどんなに見返りはいらないといっても、もやもやした気持ちになります。
子供用の絵本でしたが、大人でもすごく考えさせられる絵本でした。
この本を聞いた中で私は今日の聖書箇所を思い出しました。
「受けるよりは、与える方が幸いである。」
これはパウロがイエスさまに言われたと言っている言葉です。
この聖書の「受ける」「与える」は優しさや親切、愛などのことだと思います。
聖書で言うと「大きな木」は神であり、イエスになるでしょう。
私たちは神さまに何か与えることはありませんが、神から恵みを受けて生きています。
神は見返りもなく私たちを見守ってくださっているのです。
自分が十分に恵まれているという感覚、恵みを受けていることに気が付きます。
パウロが「受けるより、与える方が幸いである」といわれ、改心したように私もパウロに習いたいと思います。
私は「大きな木」のようにすべてをささげることはできませんが、できるだけ与える人になりたいと思っています。
それがイエスの与えた愛に答える事です。
与えるだと上から目線な気がしますが、誰かのために動くという事です。
私の通っている教会では震災献金を始めました。
今清和で具体的に動いているのは震災の募金を昨日から行っている生徒会です。
これはイエスにもらった恵みを分け与えるということだと感じました。
これがイエスの愛に答えることにつながります。
だから私も活動に協力しようと思っています。
パウロが「受けるより、与える方が幸いである」という教えを守るように。
そして私がもう一つ大切にしたいのは受ける側です。
相手が見返りを求めていないにしても、感謝すればいいというわけではないけれど、人からの親切や、気遣い、に感謝して受けることが大切だと思います。
そうすれば両方が気持ちよく、そこには平和があるのではないかと思います。
