礼拝の話

2024/05/29 

5月8日(水) 聖書 ヤコブの手紙 3章2~5節 数学科 柳井

私たちは当然のように「言葉」を使います。

時に、その言葉が失敗や間違いを引き起こすことがあります。

誰もが、言葉で誰かを傷つけたり、誤解を招いたりすることがあるでしょう。

そのつもりがなかったとしても、です。

自分の思い通りに他人を動かしたい場合、「説得する」という方法があります。

ただし、相手を完全に言い負かす、つまり論破することは得策ではなく、マウントを取ったり、自分の意見が正しいことを証明できた一瞬の喜びしか得られません。

むしろ嫌われたり恨まれたりして、相手を自分の思惑通りに動かすことは難しいでしょう。

私は過去に、言葉の使い方で失敗を経験したことがあります。

仕事の関係で、あるチームのリーダーを私が勤めていたときのことです。

当時から私は、「できないことよりもできることを探す」というマインドで仕事に取り組んでいました。

そのチームの中に、普段から仲がよく、いろんな相談をしあう関係の人がいました。

私とは正反対に、できないことを探して潰して、確実にできることをこなしていく人でした。

仕事に対するか考え方が真反対な二人ですから、お互いに納得がいかないこともあります。

二人の考え方、意見はどちらも間違っていません。

ある日のミーティングで、わたしは彼の意見をすべて、ぐうの音も出ないほど論破しました。

私の中に、「論破できてよかった」そんな感情は1㎜も生まれませんでした。

特に、どんな理由があろうと、リーダーというポジションでそれをやるべきではなかったと、激しく後悔しています。

言葉の失敗は、しばしば関係を損なったり、これまでに築いた信頼を崩壊させたりします。

「死ね」、「消えろ」などの最低な言葉でなくとも、正論を並べてぶつけるだけでも人を傷つけることができてしまう、それほどまでに言葉は扱いが難しいのです。

さて、このように扱いが難しい言葉を、完全に使いこなせる人がこの世界にいるでしょうか。

いません。

私たちは一人ひとりに個性があり、言葉の受け取り方が違うからです。

言葉を完全に使いこなせる存在がいるとしたら、それは神さまくらいではないでしょうか。

清和では、教育の中心に聖書をおいています。

選ばれて清和に入学した、選ばれて清和で働くことになった私たちは、その神さまの言葉を記した聖書から学ぶ、聖書に学ぶことができます。

言葉の使い方、そのほか、多くの点で失敗を経験しながらも、清和での教育を通して、一緒に成長していきましょう。

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