礼拝の話

2022/06/03 

6月2日(木) 聖書 ヨハネによる福音書 20章21~23節 日本キリスト改革派 高内信嗣牧師

今の時代、「平和」という言葉をよく聞きます。

戦争のニュースを見ると、早く世界が「平和」になってほしいと願います。

では実際に「平和」とは何なのでしょうか。

以前、校長先生は「今、この世界で一番、平和を祈っているのはプーチン大統領」とおっしゃっていました。

違和感を覚えて当然です。

平和を祈りながら、ウクライナへ攻撃命令を出しています。

戸惑いを覚えながらも、歴史を振り返ると、ごく自然な戦争指導者の姿なのかもしれません。

2003年にイラク戦争が開戦した時、当時のアメリカ大統領は「平和を脅かす独裁者のなすがままには決してさせません。アメリカとこの国を守る人々に神のご加護がありますように」と祈りました。

戦争指導者たちは、「平和」を取り戻すという大義を語り、祈りつつ、それが神の御心であると自国民を説得させます。

「正義のために」、「平和のために」という言葉を聞くと、私たちは錯覚してしまいます。

「平和」のために戦争は必要なのだと。「正義」のために戦争は必要なのだと。

私たちはこのチャペル礼拝で冷静になって考えたいと思います。

「平和」のために人は死ぬのでしょうか。

「正義」のために血が流されるのでしょうか。

「平和」とは何か。

「正義」とは何か。

聖書が語る「平和」は、単なる表側だけの平穏、単純に人々が穏やかに生きていくということを意味しているのではありません。

もっと「人格的」な意味が込められています。

人格的というのは「神と私」の関係、そして「私と友達」、「人間と人間」の関係です。

その間に愛と真実、正義と思いやりの関係が成り立っているということです。

その間に平和があることをイエスは望まれました。

イエスは私たちを憎むことなく、私たちを愛し、受け入れてくださいました。

そのまなざしを受け取る時間がこのチャペル礼拝です。

私たちを受け入れてくださるイエスさま、そして、そのイエスさまのまなざしを私たちはチャペル礼拝で見つめている。その関係こそ、聖書が語る「平和」です。

そして、それだけではなく私たちは平和の使者としてこの世界に遣わされています。

私たちにも役割があるということです。

イエスが望む「平和」のために、私たちの務めがあるのです。

私たちも人々を愛し、受け入れるという役割があります。

今、多くの人が戦争で命を落としている中で、本当に神がいるのかと疑ってしまうかもしれません。

神がいるならば、なぜこのようなことが起こるのかと、誰だって考えることです。

でも、今日の御言葉を見つめる時、私は神さま、イエスさまは私たちと一緒に平和を作ろうとされているのではないかと思います。

イエスはおっしゃいました。

「あなたがたを遣わす」、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。」と。

もちろん現地に遣わされるわけではありません。

私たちは無力かもしれません。

でも無関心であっていいということではありません。

「遣われる」というのは、私たちがこの地で、平和のために、考え、祈り、一人一人と向き合うということです。

祈ることができる、痛みを覚えることができる、そして身近な人たちに対しても、私たちは赦すことができる、祈ることができる。

そのようなところから主の赦しは始まり、平和が始まるのではないでしょうか。

私たちと平和の関係を築いてくださる神に目を向けて、私たちは今日も、「赦す」、「受け入れる」という愛を持ちたいと願っています。

学校生活の様子

学校生活一覧へ

学校生活|高校一覧へ

学校生活|中学校一覧へ

礼拝の話一覧へ

中学・高校 学年の通信から一覧へ

クラブ活動一覧へ

▲ページトップへ