礼拝の話

2025/01/23 

1月16日(木) 聖書 ヨハネによる福音書 6章9~13節 数学科 片山

私の家では年末年始は多くの親戚が集まり、みんなで毎晩食事会をします。

毎日誰かの家にお邪魔しては持ち込んだ料理や、ふるまってくれる料理を食べます。

その食事の時、特にお肉を食べるとき、最近見ているYouTube動画のことを思い出します。

それは「東出昌大」というチャンネルです。

そのチャンネルには、カメラマン一人が東出昌大に密着している映像が30分くらいで編集されたものがアップされています。

YouTubeでは主に狩猟した獣、鹿や猪やアナグマ、山鳥などの害獣とされている動物の調理の様子から食べるまでが撮られています。

動物の調理は解体するところから映されているものもあります。

今にも動き出しそうな動物の姿から、徐々に私たちが食べている肉の形になっていきます。

解体している中で、東出から「どこまでが動物でどこからが肉なのか」という言葉が出てきます。

命をいただくという行為そのものの全てを見る事で、自分たちがどのようにご飯を食べているかを再確認させられました。

東出さんの狩猟はただの娯楽ではなく、生活そのものでした。

美味しいから獲るのではなく、必要だから獲るというものでした。

動画の中での東出さんの「いただきます」にはすごく重みを感じました。

毎日の生活の中で食事は欠かせないものですが、毎回肉を食べる時に牛や豚の姿を思い浮かべることはありません。

だからこそ、「いただきます」と言葉にする、または心で言うこの時を以前より大切にできるようになりました。

聖書には食事の場面がいくつかあります。

中でも5つのパンと2匹の魚の話は有名です。

5000人がこのわずかな量を分け合い、満腹になり、パンくずを集めると12の籠がいっぱいになるという、数学だと問題の不備を疑うような奇跡の出来事が書かれています。

この話で、私が思うのは最初のパン5つと魚2匹を差し出した少年のことです。

1つのパンを持っていて、自分のお腹がすいているのに、ちっぽけなパン1つをささげることは何の足しにもならないとわたしなら思ったと思います。

ですが、この小さな恵みを誰かと分かち合うこと、それこそが私たちが望まれていることで、そこに神の恵みがあるとこの箇所から思い出します。

キリスト教ではご飯を食べる前に食前のお祈りをし、それから「いただきます」といいます。

その祈りには、食材の命と作ってくれた人だけでなく、今自分が生かされていることや誰かと食卓を囲むことができる事、また食材に恵みを与えていただいたことを神様に感謝の心が込められています。

周りの環境や、今生きていることへの感謝が込められていることで、自分と食材だけでなく自分と世界をつなぎ、神さまとともにあるという感じがします。

高校3年生はこれから新しい生活になり、新しい環境でたくさんの人と食事をする場面や一人暮らしで、一人でご飯を食べる場面が出てくると思います。

食事は人と人を近づけてくれると思います。

一人の時は神さまがそばにいてくれることを思い出す機会になります。

神さまの恵みによって生かされているわたしたちは、神さまによってつながっているということを「いただきます」で思い起こしながら、食事の時間を大切に送ろうと思います。

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