礼拝の話

2026/01/19 

校長 小西二巳夫

マタイによる福音書 6章27節

先週の木曜日の礼拝で、青柳先生が第一志望の公立高校の入学試験がうまくいかず、滑り止めに受けたキリスト教の高校に入学をした話をされました。
そのキリスト教の高校の校長は私でした。
その学年の入学礼拝の私の第一声は「あきらめなさい」でした。
これから希望をもって学校生活を始めましょうというのが一般的な校長の言葉です。
ところが私は「あきらめなさい」という言葉で新入生を迎えたのです。
マタイによる福音書6章27節は「思い悩むな」という言葉で始まる話です。
27節には「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」と書かれています。
悩んでいる人を突き放すような言葉ですが、言い方を変えれば、イエスは「あきらめなさい」といっているのです。
人にはどうにもできないこと、どうにもならないことがあります。
それは神にまかせるしかない。神を信頼するしかない、ということです。
イエスはどうにもならないことに心や人生を捕われるのではなく、神を信頼すること、つまりあきらめることによって、道が拓かれる、自分が今何をすればいいのか、何に一生懸命なればいいのかがわかってくるというのです。
私が入学礼拝で「あきらめなさい」で話を始めたのも、そこに理由があります。
そしてもう一つ理由があります。
日本語の「あきらめる」の語源は「明らかにする」だからです。
あきらめることで、初めて明らかになる、つまりわかることがあるのです。
イエスは、私たちが自分を小さな存在だと自覚すること、そしてあきらめることによって、たとえ生き辛い社会であっても、豊かさを失うことなく生き抜くことができると教えてくれているのです。

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