清和の教育

教育方針

小人数教育が一人ひとりにもたらすものは何か

ある時、「清和はなぜ小人数教育をしていますか。具体的な例をあげて説明してください」という質問を受け、高校3年生のAさんが次のように答えてくれました。

「一人ひとりが大切にされることです。しかし、一人ひとりが大切にされるというのは、何もしなくてもいい、先生たちが守ってくれるということではありませんでした。逆にしなければならないことがたくさんありました」。

 

清和は、毎朝のチャペルの全校礼拝を大切にしています。礼拝の司会は生徒がします。選ばれた生徒がするのではありません。高校3年生から中学1年生まで全校生徒が順番にするのです。司会者は全校生徒と教職員を前に今から礼拝を始めますとマイクでいいます。次に歌う賛美歌の番号を伝えます。その後、その日の聖書の箇所を読むのです。大勢の人を前に聖書を読むことは、間違ったり詰まったりしないようにと思い相当緊張します。「これで礼拝を終わります。それぞれ教室に向かってください」で礼拝は終わります。この間わずか15分間ですが、司会をする人には長く感じるようです。

こういう役目が苦手で、避けたり逃げたりする人がいます。失敗したらと緊張感から投げ出す人もいます。Aさんは、自分も清和に来るまでは、そんなタイプの一人だったと言うのです。でも清和は小人数なので、自分が逃げたら他の誰かに押付けることになります。それでAさんは、仕方なく司会をすることにしたと言うのです。

ところがある時、ハッと自分の変化に気づきます。礼拝の司会がいつの間にか苦痛でなくなり、むしろ楽しみになっていたのです。人前でふつうに話せ、自分の意見をきちんと言えるようになっていたのです。大人数の学校だったらこんなふうに変わる機会はなかったと気づいたのです。

 

Aさんは、自分の変化について次のようなことも話してくれました。

「清和に入学した最初の頃、ここに来たのは失敗だったと思いました。クラスの中でよくトラブルが起きたからです。行事などに取り組む時は特にそうでした。そこで困って先生のところに相談に行くと、話はきちんと聞いてくれるのですが、こうしなさいとの答えは返ってきません。先生は生徒が困っている時に正しい答えをくれるのが役目のはずと腹が立ちました。頼りない先生には頼れないと思いました。しかたがないので、自分たちで話し合いを何度もしました。そして行事を何とかやり遂げました。あ~、これで終わったと思った、その夜に気づいたのです。先生は私が自分で考え行動する、それを待ってくれていたのだ。相手としっかり対話をさせるために、自分の考えや意見を言わなかったのだと。だから清和はこれからも生徒を『待つ』学校であってほしい。早くしなさいとせかせる学校になってほしくない。生徒が自分で考えて行動するまで待ってくれる学校であってほしい。」

 

Aさんは、清和に来るまで学校は、生徒に競争させる場所だと思っていたそうです。でも、清和では競争させられることがありません。最初はそれが物足りませんでした。でも、焦らなくてもいいとわかったら、勉強が楽しくなってきたのです。大人は子どもに競争させたがります。それは競争することで、人が成長できると考えているからです。そういう一面はあります。そして大人数をまとめるには競争させるのが一番楽です。でも競争によって失うものも多いのです。それに清和は大人数ではなく小人数の学校です。小人数の学校なので競争させる必要がないのです。

 

しかし、清和は競争するべき相手が一人いると考えています。それは、過去の自分です。自分と競争をする、それを別のいい方にすると、研鑽、そして研磨といいます。研鑽の研は研究の研で「みがく」と読みます。研磨の磨も「みがく」と読みます。学園報8月号の1面に校長が「みがく」について書いています。みがくには大きく2つに分けることができます。研究の研のみがくは、堅い物で表面を削ることです。何か傷つけているようですが、これによって鈍かったものが輝きだすのです。そして、研磨の磨の「みがく」は、やわらかい布で包み、やさしくこすります。これによってツヤが出てきます。

 

Aさんは、人前に立つことや責任を果たすことから逃げていましたが、礼拝の司会をし、聖書を読みました。まさに、礼拝を通して自分が、そして心がみがかれたのです。クラスのトラブルで傷ついたように見えました。でも対話をすることによって、輝きを放つような表情に変わっていきました。そして他の誰かとの競争ではなく、自分との競争である「研鑽・研磨」によって、いきいきとした表情を持った人になりました。高校3年生のAさんは、清和のふつうの生徒です。ふつうに輝くいきいきした生徒なのです。

以上が「小人数教育が一人ひとりにもたらすものは何か」の清和の答えです。

 

清和のいちばんは生徒を「集団」ではなく「個人」で見てくれることです

上記の言葉は今年3月に卒業した生徒の1人が残していってくれたものです。

清和の教育を的確に表現してくれた最高のほめ言葉だと思っています。

清和はアメリカの女性宣教師アニー・ダウドが2人の貧しい少女を引き受けたことから出発しました。それから119年間、人を「集団」ではなくどこまでも「個」「個人」で見るキリスト教の精神を中心とした女性教育に取り組んできました。

建学の精神は校名の由来でもある聖書の「心の清い人々は幸いである。平和を実現する人々は、幸いである」です。

人を集団で見ると、勝ち負けを第一に考える教育になり、能力や技量を偏重することになります。その一方で人格や個性は大切にされなくなります。それでは1人ひとりが持つ良さや生きる力を引き出せません。豊かな心を持つことも、幸せな人生を過ごすこともできなくなります。

そこで清和は、違いを持った1人ひとりをそのまま受けとめることによって、生きる力や学ぶ力を引き出す教育、学ぶ人が喜びや幸せを感じる教育に取り組んできました。

清和はこれからも、1人ひとりの存在をキリスト教の人間観・価値観によって受けとめ、その人が持つ本来の良さや生きる力を引き出すことを目指します。

清和は「少人数教育」ではなく「小人数教育」を行う学校です

生徒を集団ではなく「個」「個人」で見るためには「少人数」ではなく「小人数」であることが求められます。

混同されやすいのですが、「少人数」と「小人数」は意味が違います。「小人数」は数的に少ないことを表します。それに対して「小人数」は単位が小さいとの意味です。「少人数」は「小人数」に含まれます。1人ひとりをしっかり見るためには数が多ければ難しくなります。しかし生徒が少なくなるのに比例して教職員も少なくしたのでは、生徒1人ひとりを「個」「個人」で見るとはいえません。生徒の数に対して教職員の数が一定であること、それに何より大切なのは生徒1人ひとりを複数の教職員の目で見るとの意識です。それがあってこそ小人数教育ができます。清和が人間を徹底的に「個」「個人」で見るキリスト教を教育のベースにする理由がそこにあります。

 

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