学校案内

校長挨拶

校長 小西二巳夫

校長 小西二巳夫

 

一人ひとりを大切にする清和で「自分の未来」を一緒に見つけましょう

SDGs(エスディージーズ)という言葉をよく聞くようになりました

最近「SDGs」「持続可能な社会」という言葉や文字を、毎日のように見たり聞いたりするようになってきました。2015年の国際連合サミットで「持続可能な社会のための17の目標と169の具体的な取り組み」が採択されました。今のままでは子どもたちが大人になる頃には、地球が住めない危ない状態になることがはっきりしてきたからです。「17の目標と169の具体的な取り組み」には、地球温暖化を防ぐといった環境に関する項目だけでなく、「貧困をなくす」、「飢餓をゼロにする」、「すべての子どもが教育を受けられる」、などがあります。「17の目標と169の取り組み」が求めているのは特別なことではありません。一人ひとりが自分さえよければいい、他の人のことなど関係ないという利己的な考え方を止めることです。そうでなければ大人も子どもも生きていけなくなる、という警告なのです。

〇〇してはいけないと警告されると、ついつい反発したくなる

地球レベルで環境が悪化している今、「持続可能な社会のための17の目標と169の具体的な取り組み」や「十戒」を守ることを否定する人はいないでしょう。けれど、○○してはいけない、△△は止めなさい、と警告されたり禁止されたりすると、自分には関係ないと反発したり無視したくなり、自分のこととして考えなくなるのが人間です。それは自分が責められ否定されるように思うからです。それをよく知っていたのが、新約聖書に登場するイエス・キリストです。イエスは大勢の人を前に次のように言いました。「心の清い人々は、幸いである。その人たちは祝福される」「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」。「祝福される=幸せになる」です。「神の子=最高のほめ言葉」です。イエスはどのような場面でもそれぞれの人間性を否定しませんでした。一人ひとりが自分の未来を想像したくなるような言葉で語りかけたのです。イエスは人々に未来志向で生きることを求めたのです。

清和は「持続可能な学び」の自分の未来に希望が持てる学校です

清和はイエスの言われた「心の清い人々は……」「平和を実現する人々は……」を建学の精神にしています。建学の精神は、その学校が教育の中心に置いている考え方です。このことからも、清和が生徒一人ひとりの人間性を大切に受けとめ、否定的な言葉や態度で生徒に接しない学校でありたいと考えていることがお分かりいただけると思います。毎日の学校生活を通して、自分を否定ではなく肯定できる人に育ってほしいと願っています。競争が中心ではなく、共に学ぶ教育によって想像力を持った未来志向の人が育つと考えています。清和は「SDGs」的や「持続可能な社会」的にいえば、「持続可能な学び」をする人を育てる学校です。その清和で学んでいる自分を、そしてわが子を想像してください。きっと未来に希望を持つ人が見えてくると思います。

大事なものを「目標」が奪うことになる  清和は学ぶ楽しさを奪わない学校です

高知ゆかりの徳勝龍という力士が幕内優勝した時のことです。その優勝が大変話題になりました。理由は、徳勝龍が西前頭17枚目という幕内最下位の地位にいたからです。その力士が幕内最高の栄誉である優勝をしたのです。徳勝龍自身が、まさか優勝できるとは思っていなかったようです。それが優勝インタビューの言葉によく表れていました。「自分なんかが優勝していいんでしょうか」。素直な思いだったのでしょう。こういう時はそっとして、じっくり喜びに浸ってもらったらいいわけです。しかし周りはそうはさせません。一番象徴的なのがテレビの解説者でした。

優勝が決まった瞬間、アナウンサーは「おめでとう」と言いました。次に「いかがですか」と解説者に話をふったのです。アナウンサーは「よくやりましたね」という言葉を引き出したかったのだと思います。しかし解説者は次のように言いました。「もっとがんばってもらわないとね。来場所もしっかりやってもらわないと、あの優勝がマグレだったと言われるからね」。

私はその言葉を聴きながら思いました。「徳勝龍の優勝はマグレでしょ。まぐれ意外の何物でもないでしょ」。優勝候補の強い力士が何人も途中で休場しました。14日目と千秋楽は、徳勝龍自身が言うように、人生で最高の相撲がとれたのです。運がよかったとしか言いようがありません。

それでも、徳勝龍が優勝したことに確かな理由があるとしたら、それは1つです。

徳勝龍は1月場所で他のどの力士よりも相撲を楽しんだことです。相撲を取るのが楽しくて仕方がない、そのような感じが全身からにじみ出ていました。相撲を楽しむことを目標にした、そのことが優勝につながったのだろうと思います。

 

今テレビ番組は新型コロナウイルス問題のために、過去の番組を再放送することが多くあります。ひと月ほど前に、NHKの「グレートトラバース日本二百名山一筆書き」という番組がありました。アドベンチャーレーサーの田中陽希さんが北海道から鹿児島県までの8,000㎞を、一切の交通機関を使わず歩き、そして200の山を登るという番組です。田中さんの体力と精神力は驚異的です。それぞれの山には一般の登山者の参考になるようコースタイムが設定されています。田中さんは、半分か3分の1の時間で頂上まで登って下りてきます。その田中さんが、二百名山の挑戦で目標にしていることがありました。それは、お正月は実家で過ごすということでした。つまり12月31日までに200の山全部を登り切ろうというわけです。

ところが、残す山が10余りになった時に表情が暗くなりました。そのペースで登ったのではお正月を実家で過ごせないことがわかったのです。そこで田中さんは少しでも時間を稼ごうと走り始めます。翌日登る山は島根県の三瓶山です。三瓶山は男三瓶、女三瓶、子三瓶、孫三瓶と4つの頂があります。二百名山で登ればいいのは男三瓶だけです。ところが田中さんはつぶやきました。「お鉢回りをしよう」。その瞬間、田中さんが田中さんらしい表情を取り戻したように見えました。

「お鉢回り」というのは4つの頂を全部登ることです。そのために予定時間を大幅に超えます。それがわかっていながら、なぜ登ると決めたのでしょうか。田中さんは山に登ることの原点が何かを考えたのです。山の魅力は、登るにつれて周囲の様子が変わっていくのを楽しめることです。自生している木や植物などの低い場所では見られないものに出会えます。吹いてくる風に顔をなぜられた瞬間、その心地よさにハッとさせられます。登っている最中に、急に視界が開けて、見えた風景に思わず見とれることがあります。それらを楽しむために山に登るのです。

 

ところが、できるだけ早く登ぼろうとすれば、そのような楽しみは捨てなければなりません。山登りは、頂上に立つという目標を達成するためだけのものなります。そうすると、山登りはただただ苦しいだけのことになってしまいます。田中さんは登ることを楽しむことが山登りの本来の目的であることに気づいたのです。お正月を実家で過ごすという目標が、山に登る楽しみを奪うことに気づいたのです。

 

新約聖書の中でパウロという人が「目標」について書いています。一見、目標を目指して何事もがまんしなさいと書いてあるように思える箇所です。そこを読むと、あれこれ文句を言わないで、少しでも努力しなさいと、言われているようです。その直後にパウロは自分ではよくわからないけれど、自分はキリスト・イエスに捕らえられていると書いています。捕まったというのは、あまりいい感じがしません。しかし、イエスに捕らえられるとは、一人で頑張らなくてもいいということなのです。たとえ一人に見えたとしても、孤独ではないということなのです。

私たちは、しんどさや辛さのために、生きることの楽しさを忘れがちになります。

そういう人たちに、パウロは私を見たらいいと言います。生きる楽しさ感じながら、今を生きている私を見なさいというわけです。パウロのようになるということは、毎日の生活の中に、学ぶことがたくさんあることを忘れずそれを楽しめるということです。  

 学びの楽しさを体験するために、清和という学校が作られているといっても言い過ぎではないと、清和は考えています。

 

一人ひとりを大切にする「清和の時間」があなたを必ず大きく成長させてくれます

ある保護者の質問

去年のことです。オープンスクールに来られた保護者のお一人が、個人相談の時に質問をされました。「清和は一人ひとりを大切にする学校です。集団ではなく個人で見てくれるとパンフレットに書いてありますが、娘の何を大切にしてくれるのですか」。とてもせっぱつまった様子でした。そこで質問の意図をもう少し詳しく尋ねました。この方の娘さんは学校で、あるできごとをきっかけに、しかもそれが誤解にもかかわらず、友だちから距離を置かれるようになり、学校にも行きづらくなったとのことです。勉強も部活もまじめにがんばってきた娘が、どうしてそんなつらい目にあわなければならないのか。さらに清和はキリスト教の学校で、神さまがいるというけれど、もしそれが本当なら、神さまは不公平すぎるというのです。

 

人には運・不運に思えることがあります

私は次のようにお答えしました。「…人には運がよい運が悪いということがあると思います。そして運が悪い、なぜこんな目にあわなければならないのと思う時に、不公平と感じるのではないでしょうか。そういう意味で娘さんは不運でしたね」。一瞬ハッとされたその方にさらに続けて申し上げました。「清和が一人ひとりの何を大切にするのか、それは違い、個性、存在、そして弱さといったことです。違いの中には運・不運も含まれていると思います。でも不運だったと思うことが後になって、幸運に出会うための大切な出会いだったということもよくあります」。

 

ある生徒のレポートから

私がそのようなことをはっきりいえるのは、清和で学校生活を過す人がどのように成長していくのかを目の当たりにしているからです。私の受け持つ聖書の授業で次のようなレポートを書いてくれた人がいます。「…清和に初めてきた時の私は、中学校で人間関係がうまくいかず悩んでいました。毎日の学校生活が不安と心配の連続でした。学校はどこでも同じと投げやりな気分でした。ですから清和には、女子校か陰湿かもしれない、キリスト教か嫌だな、といったマイナスのイメージしか持てませんでした。その私が「清和の時間」を過す中で、この学校が私のために用意された場所だと思えるようになりました。私は何と幸運な学校生活を送れるのだろうとさえ思えるようになりました…」。

 

清和の時間とは何ですか

清和には他の学校とは違う時間が流れているといわれることがあります。それを「清和の時間」と上記の生徒は表現したのです。「清和の時間」を説明すると次のようにまとめられます。「早くしなさいと急かされることのない毎日の学校生活、あわてる必要のない学び、じっくり作る人間関係」。それによって、自分を受け入れることができるようになる。嫌いだった自分が好きになる。自分が周りから必要とされることに喜びを感じる。そういう人に育っていくのです。そして、それは清和で学校生活を過すことによって、誰にでも起こるふつうのことです。清和を知らない方はぜひ一度自分の目で確かめに来てください。

 

 

「清和のいちばんは生徒1人ひとりを『集団』ではなく『個人』でみてくれることです。」
を『ジグソーパズル』から考えてみました。

 

 

 

パズルが苦手な私

私は小さい時からパズルの類が苦手でした。知恵の輪などはほとんど外せたことがありません。そういう私が珍しく熱中して作ったのが「ウォーリーを探せ」シリーズのジグソーパズルでした。ジグソーパズルは子どもに地理を教えるために作られた教材が始まりです。200年前にイギリスの木工職人が自分の子どもの遊び道具にジグソー(糸のこぎり)で板を小片に切ってパズルを作ったことから、そう呼ばれるようになりました。日本で最初にノーベル賞をもらった湯川秀樹さんは、幼稚園時代に1回やっただけでジグソーパズルの組み合わせがわかり、次からは手に取ったものを置くべき場所にどんどん置いていき、さらには裏向けにして組み合わせることができたそうです。

 

ジグソーパズルの特徴

 パズルのもともとの意味は「懸命に考える」ですから、ものごとを深く考えることが苦手だった私がパズルを苦手とするのも納得できます。ジグソーパズルの特徴を考えてみました。まず1つの作品に1つとして同じピース(片)がありません。たとえ似たような色合いや形をしていても、すべて違っています。そして時間をかけてピースの数がたくさんある作品を作ったとしても、1ピースでも欠けていれば完成したことにはなりません。ピースはだいたいが紙片ですから、それだけで価値があるとは思えません。でもその1片が失われてわかるのは、その価値と存在の大きさです。

 

ジグソーパズルと聖書の言葉
ジグソーパズルの特徴は聖書の言葉と重なります。「体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。......すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。......だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また頭が足に向かって、『お前は要らない』とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」(コリントの信徒への手紙から)。当たり前のことですが1人として同じ人はいません。ということは才能や力そして結果がその人の価値を決めるとは限らないのです。才能や力に優れていることはすばらしいことですが、それも1つの価値観や考え方に過ぎないことを忘れてはいけないのです。
清和は生徒1人ひとりを大切な「ピース」と考えます

 清和はジグソーパズルの台紙あるいはパネル・枠です。清和の学校生活は入学してきた一人ひとり(ピース)を代わりがない大切な存在・ピースとして受けとめることから始まります。その人だけが持っている存在の意味と個性を大切にし、その人のよさと個性を内側から引き出していきます。最近のジグソーパズルには平面的なものだけでなく、球状などの立体的な楽しい作品がたくさんあります。清和は1人を複数の目で違う角度から立体的に見ていきます。これを卒業した生徒の1人の言葉で表現すると「清和のいちばんは生徒1人ひとりを集団ではなく個人で見てくれるところ」となります。その学校で学んでいる自分を想像してください。いきいきと生活している自分が思い浮かんでくるはずです。
清和で幸せな学校生活をぜひ過ごしてください。

 

みなさんはどこまでも成長できる種を自分の中にもっています。
清和学園は女子校だから、小規模校だから、少人数教育だから、それを大きく育てることができるのです。

甘いトマトを食べました

 私は3月下旬に新潟から高知に引っ越してきました。少しでも早く慣れるためにチャペルの裏の家に住むことにしました。そこで学校の周りのお宅に新潟のお土産を持って引っ越しのあいさつに行きました。それから数日後、近所の方が訪ねてこられました。お返しに自分で作ったトマトを下さいました。そのトマトを食べて思わず、誰かのギャグのように叫んでしまいました。「甘~い」。びっくりするくらい甘かったのです。そこで次にお会いした時に甘いトマトの秘密をお聞きしました。すると「トマトに愛情をかけてやることです。ストレスを与えないことです。そうすると甘くおいしいトマトができます」といわれました。

 

一粒の種から1万3千個のトマトができました

 思い出したのが1粒のトマトの種から1万3千個のトマトの実を育てた人の話です。植物学者の野澤富雄さんは1万3千個のトマトを実らせました。野澤さんがそのためにしたことは特別なことではありませんでした。トマトの種にできるかぎりよい環境を整えたというだけです。大きなビニールハウスの中に大きな水槽を用意して、栄養分たっぷりの水を張って、温度と光の具合もちょうどよくして、そこに1粒の種をおきました。すると種から根が出て、水槽いっぱいまで伸びて、茎は日に日に木の幹ように太くなり、葉も生い茂り始めました。その成長に合わせて、ぶどうを育てる時のような棚を作っていきます。トマトの木が安心して大きくなるようにしたのです。その結果1万3千個の実がなったのです。

 

清和学園は信じることから始めます

 その種は特別優秀だったのでしょうか。野澤さんによると、いい環境にすれば、どんな種でもたくさんの実をつけることができるそうです。信じて育てれば、あっと驚くような数の実をならせるというのです。反対に、種によくない環境にすると、どんなにいいと思われる種でもちょっと伸びたところで、種自身がもうこれ以上は無理と成長をやめるのとのことです。これは清和学園の学校生活に通じます。清和学園は「信じる」を大切にしてきました。生徒一人ひとりの存在を、一人ひとりに無限の可能性があることを信じてきました。でも信じ続けることはむずかしいのです。そこで大切にするのが「神様が一人ひとりを選んで下さったと」の聖書の言葉です。神様が選ばれた一人ひとりを、私たちがこの子はよい、この子はダメと決めることはできないのです。

 

自分を信じる自分になる それが自分を大きく成長させてくれます

 清和学園は1粒の種が1万3千個の実を作るための環境がすべて整っているとは残念ながらいえません。足りないところがたくさんある学校です。でも一人ひとりを信じて受けとめ愛すること、大切にすることにおいて、他のどこよりも一生懸命になれる学校です。その清和学園で3年間、6年間を過ごす人にぜひしてほしいことがあります。それはみなさんが自分自身を信じるようになることです。自分の中に1万3千個、いやそれ以上の実を生らす可能性があると信じて学校生活をすることです。トマトによい種も悪い種もないなら、人によい人悪い人、できる人できない人などの区別などする必要はありません。みなさんはどこまでも成長できる種を自分の中にもっているのです。一人ひとりの存在を信じる清和学園でぜひ学校生活を始めて下さい。

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