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中学校・塾の先生方へ  -2019年度学校説明会より-

校長 小西二巳夫

「アルプスの少女ハイジ」から見えてくる清和の教育

スイスの作家ヨハンナ・シュピリの作品に「ハイジ」があります。日本では宮崎駿のアニメーション「アルプスの少女ハイジ」で知られていますが、この物語の中に、清和の教育と目指すものを見ることができると思っています。

テレビCMにハイジが登場

ある家庭教師派遣会社のCMで「ハイジ」が使われるのを初めて見た時、一瞬なぜハイジなのかと戸惑いましたが、しばらく考えてなるほどと思いました。

それはハイジの物語で先生、家庭教師の存在と言葉は重要だからです。

それをわかってのハイジなら、なかなかの会社だと思いました。

ハイジの物語には誰からもあまり好かれないと思われる人物が出てきます。

家庭監督のロッテンマイヤーさんです。

ロッテンマイヤーさんがハイジを嫌ったのには理由があります。

彼女は異なる環境で育ち違う価値観を持つハイジがクララに悪影響を及ぼすと考えたからです。

ですから、ロッテンマイヤーさんは家庭教師の先生に次のように訴えました。

「勉強の遅れた、そして常識外れのハイジとクララを一緒すると、クララの学力も引きずられて下がってしまう、だからハイジを一緒に学ばせないでほしい」。

しかし家庭教師の先生は次のように答えます。

「その娘さんはある面では遅れているとしても、他の面ではその分だけ進んでいるかもしれないし、きちんと授業を受けさせれば、やがてつりあいがとれるようにならないともかぎらない」。

先生のこの考え方は先生独自のものではなく、キリスト教の基本的な教育観です。キリスト教学校の清和の生徒の受けとめ方もこれと重なります。

 

「待つ」はキリスト教の基本的な人間観・価値観

先生の言葉通り、学ぶことの楽しさと喜びを知ったハイジはクララに本を読み聞かせるまでに学力がつき、人間的にも成長します。

家庭教師の言葉を別の表現にすると、教育はその子が主体的に学び始める時が来ることを信じて「待つ」ということになります。

しかし「待つ」ことには忍耐と時間が必要です。

ですから、多くの高校は待つだけの余裕がない、それを待っていては進学等に差し支えると考えるわけです。

その中にあって清和は待つことを大切にしてきました。

それは「待つ」がキリスト教の基本的な人間観・価値観でもあるからです。

最近日本でも使われるようになったクリスマス用語にアドベントがあります。

アドベントの意味は「待つ」で、クリスマス前のキリストの誕生を待つ期間をアドベントと呼んでいます。

さらにアドベントからアドベンチャー冒険するという言葉がでてきましたが、その待ち方も受け身ではなく積極的です。

そういう意味で、キリスト教の学校の清和は子どもたちの成長を前向きに待ちながら教育する学校だと申し上げることができます。

そのあたりを多くの先生方に信頼していただいているのは幸いです。

 

清和の教育の出発

ハイジは幼い時に両親を失うことをきっかけに、厳しい環境の中で生きてきました。それもあって良くも悪くも自分中心に育ちます。

そのハイジがお爺さんと出会い、本来の自分に気づいていきます。

山の暮らしを通してハイジは自己肯定感を少しずつ取り戻していったのです。それが物語の前半です。

後半はフランクフルトで教育を受ける機会を得たハイジがこのままではいけないと気づきながら、学んでいく姿が描かれています。

家庭教師の言葉のように、教育はバランスの取れた学習指導と内面的成長を促す人間教育を同時進行でしなければならないことをハイジの物語が教えてくれます。

清和は学校設立以来、ハイジの原作者ヨハンナ・シュピリがこうあってほしいと願う教育を、高知の地で清和なりのやり方でやってきたといえます。

清和が設立されたのは120年近く前で、学校の歴史としてはなかなかのものです。

ただ年数が知名度に反映されない、むしろ反比例しているとさえ思える学校です。なぜそうなったのか、私なりに考えてみました。

アメリカ人教師のアニー・ダウドは、高知に来て貧しさをはじめとする様々な事情を抱えた2人の少女に出会います。

その出会いをきっかけに、痛みや悲しみを持つ少女たちの存在を真正面から受けとめることによって、自己肯定感を取り戻させ、生きる喜びや学ぶ喜びを知った人になるための女子教育に取り組みます。それが清和の教育の原点です。

華々しさはなく、いたって地味です。その目立たなさが地域にあまり知られていないとの現状を招いたといえます。

 

少人数教育ではなく小人数教育

教育において「待つ」にはもう一つの欠かせない要素として「小人数」があります。小人数教育の小は少ないではなく小さいです。

1人ひとりを大切にするためには小規模・小人数でなければならないと考えたのです。

それは大きくなればなるほどそこには競争原理が強く働き切り捨てが起こるからです。

キリスト教の本質に、人を集団ではなくどこまでも個で見るというのがあります。

それを教育の中で実践するために、清和は早い時期に小規模・小人数の学校であり続けることを決断しています。

小規模であることも地域から知られない学校という要素になっていると思います。

しかし小さいながら、清和はどの時代にも必要とされる教育を行なってきたと考えています。その点から話を進めさせていただきます。

ハイジの物語で注目をしたいのはクララです。恵まれた教育環境の中で、クララは成長のために必要なものを十分に得ていました。

しかしそれは具体的な支えにならず、彼女の生きる力になっていませんでした。

何とかしようと大人が考えたのが、同年代の子どもを遊び相手として雇うことです。しかしうまくいきませんでした。

というのは、選ばれた相手がクララと同質の子どもたちだったからです。

ところがロッテンマイヤーが嫌うハイジがクララの生きる力を引き出していきます。それを一言でいうとハイジの持つ異質さとの出会いがクララを変えたのです。

多くの高校が同質の人たちを集めようとします。

それはムダなく効率よく教育できる、効率がよい、進学に必要と考えたからです。本当にそうなのでしょうか。

それについて、先生方のご苦労やご負担の大きな原因になっていることを敢えて承知でいわせていただくのですが、公立中学のよさは、同じ地域にあっても学力や家庭環境の違う、それも相当幅の広い違いを持つ生徒が集まることにあると思っています。

教育は異質なもの同士のぶつかり合いを通して、学ぶ力と生きる力が引きだされると考えるからです。

そう考える清和は生徒に学力や能力などについて同質、同じレベルであることを求めてきませんでした。

学力の差についても、できるだけ個人選択プログラムによって、習熟度別クラスによって、一人ひとりの違いに対応しています。

それが学校生活の充実と満足につながっていると考えています。

 

デュナミスとエネルゲイア

清和は学力と生きる力は外側から詰め込むのではなく、内側から引きだすものだとの一貫した考えを持ってやってきました。

そのことによくわかるのが、学力・力を表す言葉のデュナミスとエネルゲイアです。

これらは元々はアリストテレスの哲学用語でギリシャ語です。

デュナミスはダイナマイトの語源で、エネルゲンはエネルギーの語源です。

たくさんの知識や情報を覚え頭の中に蓄積された学力、それがデュナミスです。

デュナミスは蓄積した量の多さで決まります。

そこで多くの学校は知識と情報をできるだけ多く詰め込こもうとしてきました。

そのためには学習時間を増やさなければならないと考えたのです。

しかしデュナミスがデュナミスのままでは、学力、生きる力に反映されません。

社会で求められるのは知識や情報を状況に応じた形で外に出すエネルゲイアです。

デュナミスを蓄積する教育をしても、それが国や組織、個人を本当の意味で支ええる力にはなり得ず、日本の国が立ち行かなくなること確かです。

さまざまな理由から日本社会をグローバル化しなければならない状況になって、エネルゲイアを持った人、世界に伍して日本社会に貢献できる人を育てなければならないということに気づくわけです。

それには一方通行型の講義中心の教育・授業ではダメだということになりました。

そこで主体的対話的深い学び(アクティブラーニング)型の教育を行うことによって、デュナミスをエネルゲイアに変えられる人を育てていこうとなったわけです。

デュナミスがエネルゲイアになるためには必要なものがあります。

それは心だといわれます。もっと絞っていえば良心です。

しっかりとした心を持つ人がデュナミスをエネルゲイアに変えることができるのです。心を育てるのを人間教育、人格教育といいます。

それもあって国、文科省が始めたのが道徳の教科化です。

道徳を教科化することで、心の教育を行い、デュナミスをエネルゲイアにできる人を育てようというわけです。

 

高校3年生と中学1年生の聖書の授業

私は高校3年生と中学1年生の聖書の授業を持っています。

聖書の授業というと、「聖書を学ぶ」、聖書に書いてあること、キリスト教のことを教えると思われがちですが、それが目的ではありません。

いい方としては「聖書に学ぶ」です。

聖書の価値観や間観に触れることによって、自分の存在を考え、この社会をどのように生きていくのかという、人間の根源的なことを、自分で考えられるようになるのが聖書の授業の目的です。

そういう教育に携わる中でつくづく実感させられるのは、心は教えられるものではないことです。そして時間がかかるということです。

決まった時間内で教えて、心の教育をしました、わかりましたではないのです。

さらにはっきりいえるのは、人間教育・心について教えるのはムダだということです。すぐには役に立たないのです。

ですから、すぐに結果が出ず点数化できない心を教えることは相当難しいのです。

心を育てるためには時間とエネルギーが必要であり、その上ムダとの自覚が必要です。その覚悟を学校が持てるかということです。

ムダといいましたが、それがムダとわかっていながら、そのために時間を使って教えるということができるかということです。

ただ清和は出発から人間教育をする学校、生きる力を育むことを目的としてきましたので、それを承知の上で、行なってきました。

それはムダといわれるものが、人間が生きていく上で必要不可欠なものであると考えているからです。

必要不可欠なムダを別の言葉にすると教養です。文科省も「教養が生きる力」であるとはっきりいっています。教養と学歴はほとんど関係しません。

学歴のある人が教養あるとは限らないのです。

教養というのは他人との間にきちんとした距離を持つことです。

教養を身につけることによって、わからないこと、納得できないことがあっても、まずは状況を受け入れることができるようになります。

学校でも他人との距離感のなさが問題を引き起すことになります。

他者との距離感をしっかり持った人になることが、そのまま生きる力になるということです。

清和は設立当初以来キリスト教による教養教育をおこなってきたのです。

 
AI人工知能の社会の中で

私たちはこれまでに体験したことのない問題に直面させられていきますAI人工知能の進化です。

英国のある大学が2年前に8年後に今ある職業の47%がなくなると発表しました。

なくなる職業には高度の知識、デュナミスが必要な仕事が多く含まれています。裁判官、弁護士、医師、パイロットや運転士、教師も含まれます。

地球規模の大量リストラが始まるわけです。その発表から2年経った今、加速度がついています。

先月A1が作った司法試験の予想問題の結果が公表されていました。

現時点で60%の正答率です。あっという間に100%近くになると考えられます。

これによって、多くの立場の人がリストラされる、不必要になります。

進歩と幸福を求めて人間が作り出したAIによって、職業のリストラではなく人間の存在そのものが不必要になる、ムダとなる、そういう時代に入っていくわけです。

清和は120年前に周囲から不必要とされた少女を、存在そのものを否定された人を受けとめることからキリスト教による人間教育を始めた学校です。

 
就学支援金制度による授業料の無償化

自分が内側に持つ力を引きしてくれる教育を受けることによって、どういう時代にあっても、そこを生きていける人を育ててきたと申し上げることができます。

今年は清和という学校の存在の意味についてお話させていただきました。

そうした教育をする清和に関心はあるけれど、実際のところ私立でお金が高いと思われることが多いのですが、私立も10年前から国の就学支援金によって、公立高校と同じように授業料が無償になっている生徒や半分以下で済んでいる家庭もたくさんあります。

お手元にある学校紹介パンフレット、昨年度のものですが、そこに具体的なことを載せていますので、そこを読んでいただくと、清和は案外お金がかからない学校と安心していただけると思います。

10月の消費税の値上げとも関係するのですが、国は来年度、収入590万円以下の私立高校生には授業料等の完全無償にする方向で進んでいます。

これによって相当数の家庭の授業料が無償になります。

そのあたりをご理解いただくと、清和という高校を身近に感じていただけるのではないかと願っています。

 
清和学園は、女子校だから、小規模校だから、少人数教育だから、
一人ひとりの能力ではなく存在と個性を大切にできるのです。

 清和学園は建学の精神に基づいて、118年前より一人ひとりを大切にする女子教育に励んできました。それによって自己肯定感を持つ存在を育成することを願ってきました。しかし近年力不足もあってか、本校の目指す教育を各学校にお伝えできずきました。本当に申し訳なく思います。そこで今年度よりあらためて本校の目指す教育について各学校の先生方にご理解をいただけるよう努力してまいります。

 清和学園が創立時より大切にしてきたのは、一人ひとりの存在と個性を大切にする教育です。多くの学校が能力を第一と考え教育を行います。しかしそれだけが教育のすべてではありません。それだけではその子が持つ良さや学ぶ意欲を引き出すことはできません。そこで清和学園は学力の優劣だけで評価するのではなく、また能力を競わせるのではなく、一人ひとりが持つ人格や個性そして痛みなどを真正面から受けとめることによって、生きる力や学ぶ意欲を引きだす教育に励んできました。せかずあわてずじっくり共に成長していく教育です。結果的にそれがその子の成長をより早く促すことになります。

 個性にはプラスに見えるものだけでなく。その子の持つ学力の差異や特性そして学校での生きづらさなども含まれます。一般的な評価からすればマイナスの要素もまた個性です。そこで清和学園はそうした個性をキリスト教の人間観や価値観によって積極的に受け入れています。清和学園は毎日の学校生活の中で、その子の持つ個性をそのまま受け入れることによって、安心して過ごせる学校、その子が持つ本来の良さを引きだす学校を目指しています。以上、先生方に清和学園の教育の姿勢を少しでもご理解いただければ幸いです。

 もし個人的な学校見学やご相談をご希望される生徒や保護者がおられましたら、遠慮なくお知らせください。校長を中心に精一杯対応させていただきます。

 

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