入試情報

2020年度 進路指導の先生方への説明会より

 
新しい学校紹介パンフレットができました。キーワードは「清和の時間」です。

 本日は、清和の進路説明会においで下さりありがとうございます。お手元の学校紹介パンフレットは先日できあがったばかりです。最初に、少し見ていただきながらお話しさせていただきます。P9どのような進路指導をしているのかをお示しています。小人数の利点をいかして進学についてはほぼ個人指導で行っています。P10この2年間の進学先を載せてあります。本人の希望や家庭の経済状況なども配慮しながら、一緒に考えた結果です。どの生徒も進路には満足できているはずです。そこで、今日は一人ひとりがどのようなプロセスを経て、つまりどのような受けとめ方をされる中で進路を決めたのか、日常的にしているのかをお話しさせていただきたいと考えています。それを「時間」をキーワードにお話させていただきます。時間についてはパンフレット表紙裏の1ページ2ページに書かせていただきました。今日の話と併せて、清和なぜ小人数教育にこだわってきたかをご理解いただけたなら、幸いです。

 

走る時間は思いめぐらす時間

 私事になりますが、スポーツジムに週に3回程度、20年以上通っていました。軽い筋トレとトレッドミルというランニングマシンで60分程度走ります。私にとって走る時間は考える時間です。悩んでいることや直面している課題にどう取り組むのかをじっくり考えられます。今年の2月に突然貴重な時間が新型コロナウイルスによって奪われました。スポーツジムの中は三密状態そのものですから行けなくなりました。代わりに早朝か夕方に、舟入川沿いを走ることにしました。ジムでは時速などを設定しましたが、外ではランニングウォッチをつけて走ります。1キロ走るとバイブレーションが鳴り、何分で走ったかがわかるように設定しました。時計を見ながら思うのは、5秒遅くなったもっと早くといったことばかりです。時間との競争が始まりました。というより時計に走らされる、時間に追い立てられるようになったのです。ランニングがあれこれ思いめぐらす時間ではなくなりました。ですから、1時間走り終えた後も、何か不満と疲れを感じるようになりました。時計を外した今は、週に5日程度1時間走っていますが、大切な時間を取り戻したような気持ちで、気持ちよく走れています。この体験からも、与えられた時間の過ごし方によって、その時間がまったく違った意味を持つことになることがあらためて実感させられています。

 

リテラシーとアチーブメント

 学校は2000年以降急激な変化を求められてきました。OECDが21世紀に求められる学力とはリテラシーと定義しました。それに基づいて2000年に国際学力到達度調査PISAを34か国で実施しました。2003年の2回目のPISAで、日本の学力の低下が取りざたされました。これを受けて、文科省は30数年ぶりに全国学力テストを行うことを決めました。日本でいう学力は、それまで一般的にアチーブメントのことでした。ですからリテラシーで学力を判断したら齟齬が出るのは当然です。OECDの調査からリテラシーがあると評価されるのはフィンランドです。この国の教育の特徴は、中学高校の授業は午前中で終わりです。能力別編成はせず、小人数クラスにして、生徒が自らの能力を引き出すようにする。清和と重なる部分が多くあります。日本は違うスタンスで教育をしてきましたが学力は低くはありませんでした。むしろ総合的に見てかなり上位でした。それにもかかわらず、もっと学力を上げなければとなったのです。そしてリテラシーの習得のためにはアクティブラーニングの導入となっていきます。それが途中から「主体的対話的深い学び」とすわりの悪い表現になりました。さらにAI人工知能に対応するプログラミング学習が求められるようになりました。そこへ新型コロナウイルスによって、学校の一斉休業という初めての体験をしました。このような急激な変化の中で、すぐにでもICTを全面的に使った教育をしなければダメとの空気になっています。

 

数学者 岡潔先生の言葉

 今盛んにいわれるのは次のようなことです。世界はすでにICT教育が中心で、日本の学校は完全に後れを取っている。このままではグローバル社会、成果に対応できる人材は育たない。中学高校もプログラミングを取り入れた教育に転換しなければならない。さらに、急激な変化と導入を遅らせているのは学校現場であるかのようにいわれます。中学校・高校は、これをどのように受けとめたらいいのでしょうか。社会全体が寛容さを失う中で思春期前期と後期の子どもたちは育っています。その彼らを中学校高校は限界を超えて受けとめてきたといっても過言ではありません。日本の教育の中で、急激な変化を求めることはこれまでに何度かありました。それに直面させられている今、私は岡潔という数学者の言葉を思い出します。岡さんは60年近く前に次のようにいわれました。「学校は徐々に変化するのが一番です。急変するのは、よくなったように見えることでも、必ず大切な何かを切り捨てています。」急激な変化を求められる中で、学校において何を切り捨てさせられてきたかです先生も生徒も時間に追われる中で情報処理などの能力などが上がったことは確かです。けれど、生徒を追い立てることによってリテラシーは必ずしも上がっていません。リテラシー、問題解決能力は想像力を働かせることから身につきます。考える時間を奪っておいて、リテラシーが持てるようになるはずがありません。

 

教育をエビデンス(実証的な根拠)で考える

 なぜそういうことになるのか、何かおかしいと思います。理由はエビデンスに基づいて教育が行われてこなかったからではないでしょうか。エビデンスは何を得え何を失うのかを実証的な根拠によって判断することです。今、教師が主体になって黒板を使う授業はいかにも古いかのようにいわれます。それでは生徒の主体的対話的学びができず学力もつかないかのようにいわれます。それでは世界に通用するグローバルな人材は育たないとばかりに批判されています。そこで、あらためて考えたいのは、日本の教育の水準の高さは誰によって何によって維持されてきたかです。それを明らかにしたのが9月新学期導入問題です。学校休業が続く中で9月新学期案が急浮上しました。これで日本の教育問題が一気に解決するかのような、ICT教育とグローバル化が一気に進むかのような発言が相次ぎました。ところが5月下旬に9月新学期への発言が急になくなりました。それはあるエビデンスがあったからです。刈谷剛彦さんの研究グループが、9月新学期によって何が起こるかを実証的な根拠によって明らかにしたのです。一番衝撃的だったのが先生の数が6万6千人不足することです。刈谷さんは9月新学期導入に賛成でもなく反対でもない立場で実証されたのです。このエビデンスによってあらためて実証されたことがあります。

 

日本の教育は先生たちの献身的な働きによって支えられてきた

 日本の教育は先生たちの個人的献身的な働きによって支えられてきた現実です。さらに必要な教師の数の決定的な不足です。そして1人の教師が抱える半端でない仕事量の多さです。しばらく前に、高知県内の中学の先生の一日一週間を追うテレビ番組がありました。授業、生徒対応、部活、休日の試合、そして授業準備に多忙を極めています。番組から先生が何に一番のしんどさを感じているのがかよく伝わってきました。それは生徒一人ひとりと「対話する時間」が持てないということです。番組に登場された先生の仕事量や役割の多さはたぶん一般的なものでしょう。そこで考えられるのは、もし先生に時間と分掌の余裕があれば、生徒や他の先生と対話から、生徒の学ぶ力や生きる力はもっと引き出されるに違いないことです。先生の数が必要なだけ確保されれば、アクティブラーニングという、わかりにくい横文字の方法論を持ち込む必要はないように思うのです。それを主体的・対話的深い学びという表現に変えなくても、主体的・対話的深い学びはできることです。新型コロナウイルス感染問題によってオンライン授業を導入した報告がよく載ります。たとえば不登校の生徒がオンラインにしたら学習に積極的に参加するようになった。そしてその理由をコミュニケーションを取らなくてもよいからのように考えています。その子が不登校になったのは他者と対話が難しいからです。それがオンラインによって対話ができるようになったのです。

 

清和が小人数の学校にした理由

 清和は学校創立以来、小人数の学校としてやって来ました。学校紹介パンフレットに小人数と少人数の意味の違いを書かせていただきました。少人数教育は生徒の数と教師の数がパラレルになります。小人数教育はそうではありません。清和は個人選択制プログラムを積極的に活用しています。さらに中学と高校に分かれています。時間数だけでいえば、1人で持てるはずのものが、個人選択制プログラムによるカリキュラム編成と時間割から無理な場合が出てきます。そうすると1人の持ち時間数が少なくなります。小人数教育の中心あるのが対話です。「清和の時間」には、その中心に対話の時間があるということです。

 

写真集「ジブリ美術館ものがたり」から見えてくるもの

 3月に「ジブリ美術館ものがたり」という写真集が出ました。東京の郊外にある三鷹の森ジブリ美術館の建物の内外を撮った写真集です。カメラマンはプロではなくアマチュアのタイの若い女性のカンヤダさんです。彼女は写真をアイフォンで撮りました。スタジオジブリの人たち映像のプロですから写真には厳しい見方をします。その人たちが素人のしかもアイフォンで撮った写真に感動したというのです。カンヤダさんは三鷹の森美術館の展示物や建物をどのように撮ったのでしょうか。それは子どもの目線です。子どもなら、こんなふうに見るのだろうという見え方の写真を撮ったのです。鈴木さんというプロデューサーがそれを次のように表現しました。「カンヤダさんの写真には教会の雰囲気がある、写真から祈りが伝わってくる」。写真から祈りが伝わってくるというのはどういうことでしょうか。祈りというと神社やお寺でするお願いが思い浮かびます。しかしキリスト教、新約聖書の「祈り」にお願いが当てはまるのは数ヶ所だけです。断然多いのは日本語「聴く」に当てはまる言葉です。つまりキリスト教にとって「祈り」は神の声を聴くことです。「神の声を聴く」とは「神との対話」することです。対話は相手の考えや存在を受け入れ、自分も受け入れてもらうことから始まります。スタジオジブリがカンヤダさんの写真には「対話」があると感じたのです。カンヤダさんは写真を撮る時、被写体と「対話」をしているのです。対話をしているかどうかが写真に撮るはずはありません。しかし、写るはずのないものが写っているように見える、そこが感動を与えるのです。さらに対話によって被写体である相手の持っているよさや力を引き出しているのです。

 

清和の教育の中心にあるのは「対話」です

 「祈りがあり対話がある」は清和が学校生活の中で大切にしてきたことです。清和の一日は祈りに始まり祈りに終わります。清和の時間は対話が詰まっているということです。そして清和が小人数にこだわってきたのは、そうでなければ対話ができないからです。神との対話は他者との対話につながり、コミュニケーションへとつながります。社会と対話をするようになり、様々な出来事に関心を持つ人に育っていくのです。神との対話は一番避けていた相手と対話する力を生みます。思春期の子どもとって一番避けている対話の相手とは自分自身です。対話は相手を受け入れることです。自分を受けいれる、それを別の言葉にすると自己肯定感を持つということです。自己肯定感を持つ持たないかは学ぶこと生きることにおいて決定的な違いを生みます。自分で自分が受け入れられることほど幸せなことはありません。それが可能になる清和の学校生活は誰にとっても幸せな毎日と考えます。自己肯定感を持てるようになった一つの証しが最初に申し上げた進路の実現です。

 最後に、先生方がそれぞれの学校で、できる限り大切にされてきた生徒との対話の教育を、そこで受けとめられてきた生徒さんを、清和は中等教育の後半の高校としてしっかり受けとめさせていただきたいと考えています

 

 

中学校・塾の先生方へ  -2019年度学校説明会より-

校長 小西二巳夫

「アルプスの少女ハイジ」から見えてくる清和の教育

スイスの作家ヨハンナ・シュピリの作品に「ハイジ」があります。日本では宮崎駿のアニメーション「アルプスの少女ハイジ」で知られていますが、この物語の中に、清和の教育と目指すものを見ることができると思っています。

テレビCMにハイジが登場

ある家庭教師派遣会社のCMで「ハイジ」が使われるのを初めて見た時、一瞬なぜハイジなのかと戸惑いましたが、しばらく考えてなるほどと思いました。

それはハイジの物語で先生、家庭教師の存在と言葉は重要だからです。

それをわかってのハイジなら、なかなかの会社だと思いました。

ハイジの物語には誰からもあまり好かれないと思われる人物が出てきます。

家庭監督のロッテンマイヤーさんです。

ロッテンマイヤーさんがハイジを嫌ったのには理由があります。

彼女は異なる環境で育ち違う価値観を持つハイジがクララに悪影響を及ぼすと考えたからです。

ですから、ロッテンマイヤーさんは家庭教師の先生に次のように訴えました。

「勉強の遅れた、そして常識外れのハイジとクララを一緒すると、クララの学力も引きずられて下がってしまう、だからハイジを一緒に学ばせないでほしい」。

しかし家庭教師の先生は次のように答えます。

「その娘さんはある面では遅れているとしても、他の面ではその分だけ進んでいるかもしれないし、きちんと授業を受けさせれば、やがてつりあいがとれるようにならないともかぎらない」。

先生のこの考え方は先生独自のものではなく、キリスト教の基本的な教育観です。キリスト教学校の清和の生徒の受けとめ方もこれと重なります。

 

「待つ」はキリスト教の基本的な人間観・価値観

先生の言葉通り、学ぶことの楽しさと喜びを知ったハイジはクララに本を読み聞かせるまでに学力がつき、人間的にも成長します。

家庭教師の言葉を別の表現にすると、教育はその子が主体的に学び始める時が来ることを信じて「待つ」ということになります。

しかし「待つ」ことには忍耐と時間が必要です。

ですから、多くの高校は待つだけの余裕がない、それを待っていては進学等に差し支えると考えるわけです。

その中にあって清和は待つことを大切にしてきました。

それは「待つ」がキリスト教の基本的な人間観・価値観でもあるからです。

最近日本でも使われるようになったクリスマス用語にアドベントがあります。

アドベントの意味は「待つ」で、クリスマス前のキリストの誕生を待つ期間をアドベントと呼んでいます。

さらにアドベントからアドベンチャー冒険するという言葉がでてきましたが、その待ち方も受け身ではなく積極的です。

そういう意味で、キリスト教の学校の清和は子どもたちの成長を前向きに待ちながら教育する学校だと申し上げることができます。

そのあたりを多くの先生方に信頼していただいているのは幸いです。

 

清和の教育の出発

ハイジは幼い時に両親を失うことをきっかけに、厳しい環境の中で生きてきました。それもあって良くも悪くも自分中心に育ちます。

そのハイジがお爺さんと出会い、本来の自分に気づいていきます。

山の暮らしを通してハイジは自己肯定感を少しずつ取り戻していったのです。それが物語の前半です。

後半はフランクフルトで教育を受ける機会を得たハイジがこのままではいけないと気づきながら、学んでいく姿が描かれています。

家庭教師の言葉のように、教育はバランスの取れた学習指導と内面的成長を促す人間教育を同時進行でしなければならないことをハイジの物語が教えてくれます。

清和は学校設立以来、ハイジの原作者ヨハンナ・シュピリがこうあってほしいと願う教育を、高知の地で清和なりのやり方でやってきたといえます。

清和が設立されたのは120年近く前で、学校の歴史としてはなかなかのものです。

ただ年数が知名度に反映されない、むしろ反比例しているとさえ思える学校です。なぜそうなったのか、私なりに考えてみました。

アメリカ人教師のアニー・ダウドは、高知に来て貧しさをはじめとする様々な事情を抱えた2人の少女に出会います。

その出会いをきっかけに、痛みや悲しみを持つ少女たちの存在を真正面から受けとめることによって、自己肯定感を取り戻させ、生きる喜びや学ぶ喜びを知った人になるための女子教育に取り組みます。それが清和の教育の原点です。

華々しさはなく、いたって地味です。その目立たなさが地域にあまり知られていないとの現状を招いたといえます。

 

少人数教育ではなく小人数教育

教育において「待つ」にはもう一つの欠かせない要素として「小人数」があります。小人数教育の小は少ないではなく小さいです。

1人ひとりを大切にするためには小規模・小人数でなければならないと考えたのです。

それは大きくなればなるほどそこには競争原理が強く働き切り捨てが起こるからです。

キリスト教の本質に、人を集団ではなくどこまでも個で見るというのがあります。

それを教育の中で実践するために、清和は早い時期に小規模・小人数の学校であり続けることを決断しています。

小規模であることも地域から知られない学校という要素になっていると思います。

しかし小さいながら、清和はどの時代にも必要とされる教育を行なってきたと考えています。その点から話を進めさせていただきます。

ハイジの物語で注目をしたいのはクララです。恵まれた教育環境の中で、クララは成長のために必要なものを十分に得ていました。

しかしそれは具体的な支えにならず、彼女の生きる力になっていませんでした。

何とかしようと大人が考えたのが、同年代の子どもを遊び相手として雇うことです。しかしうまくいきませんでした。

というのは、選ばれた相手がクララと同質の子どもたちだったからです。

ところがロッテンマイヤーが嫌うハイジがクララの生きる力を引き出していきます。それを一言でいうとハイジの持つ異質さとの出会いがクララを変えたのです。

多くの高校が同質の人たちを集めようとします。

それはムダなく効率よく教育できる、効率がよい、進学に必要と考えたからです。本当にそうなのでしょうか。

それについて、先生方のご苦労やご負担の大きな原因になっていることを敢えて承知でいわせていただくのですが、公立中学のよさは、同じ地域にあっても学力や家庭環境の違う、それも相当幅の広い違いを持つ生徒が集まることにあると思っています。

教育は異質なもの同士のぶつかり合いを通して、学ぶ力と生きる力が引きだされると考えるからです。

そう考える清和は生徒に学力や能力などについて同質、同じレベルであることを求めてきませんでした。

学力の差についても、できるだけ個人選択プログラムによって、習熟度別クラスによって、一人ひとりの違いに対応しています。

それが学校生活の充実と満足につながっていると考えています。

 

デュナミスとエネルゲイア

清和は学力と生きる力は外側から詰め込むのではなく、内側から引きだすものだとの一貫した考えを持ってやってきました。

そのことによくわかるのが、学力・力を表す言葉のデュナミスとエネルゲイアです。

これらは元々はアリストテレスの哲学用語でギリシャ語です。

デュナミスはダイナマイトの語源で、エネルゲンはエネルギーの語源です。

たくさんの知識や情報を覚え頭の中に蓄積された学力、それがデュナミスです。

デュナミスは蓄積した量の多さで決まります。

そこで多くの学校は知識と情報をできるだけ多く詰め込こもうとしてきました。

そのためには学習時間を増やさなければならないと考えたのです。

しかしデュナミスがデュナミスのままでは、学力、生きる力に反映されません。

社会で求められるのは知識や情報を状況に応じた形で外に出すエネルゲイアです。

デュナミスを蓄積する教育をしても、それが国や組織、個人を本当の意味で支ええる力にはなり得ず、日本の国が立ち行かなくなること確かです。

さまざまな理由から日本社会をグローバル化しなければならない状況になって、エネルゲイアを持った人、世界に伍して日本社会に貢献できる人を育てなければならないということに気づくわけです。

それには一方通行型の講義中心の教育・授業ではダメだということになりました。

そこで主体的対話的深い学び(アクティブラーニング)型の教育を行うことによって、デュナミスをエネルゲイアに変えられる人を育てていこうとなったわけです。

デュナミスがエネルゲイアになるためには必要なものがあります。

それは心だといわれます。もっと絞っていえば良心です。

しっかりとした心を持つ人がデュナミスをエネルゲイアに変えることができるのです。心を育てるのを人間教育、人格教育といいます。

それもあって国、文科省が始めたのが道徳の教科化です。

道徳を教科化することで、心の教育を行い、デュナミスをエネルゲイアにできる人を育てようというわけです。

 

高校3年生と中学1年生の聖書の授業

私は高校3年生と中学1年生の聖書の授業を持っています。

聖書の授業というと、「聖書を学ぶ」、聖書に書いてあること、キリスト教のことを教えると思われがちですが、それが目的ではありません。

いい方としては「聖書に学ぶ」です。

聖書の価値観や間観に触れることによって、自分の存在を考え、この社会をどのように生きていくのかという、人間の根源的なことを、自分で考えられるようになるのが聖書の授業の目的です。

そういう教育に携わる中でつくづく実感させられるのは、心は教えられるものではないことです。そして時間がかかるということです。

決まった時間内で教えて、心の教育をしました、わかりましたではないのです。

さらにはっきりいえるのは、人間教育・心について教えるのはムダだということです。すぐには役に立たないのです。

ですから、すぐに結果が出ず点数化できない心を教えることは相当難しいのです。

心を育てるためには時間とエネルギーが必要であり、その上ムダとの自覚が必要です。その覚悟を学校が持てるかということです。

ムダといいましたが、それがムダとわかっていながら、そのために時間を使って教えるということができるかということです。

ただ清和は出発から人間教育をする学校、生きる力を育むことを目的としてきましたので、それを承知の上で、行なってきました。

それはムダといわれるものが、人間が生きていく上で必要不可欠なものであると考えているからです。

必要不可欠なムダを別の言葉にすると教養です。文科省も「教養が生きる力」であるとはっきりいっています。教養と学歴はほとんど関係しません。

学歴のある人が教養あるとは限らないのです。

教養というのは他人との間にきちんとした距離を持つことです。

教養を身につけることによって、わからないこと、納得できないことがあっても、まずは状況を受け入れることができるようになります。

学校でも他人との距離感のなさが問題を引き起すことになります。

他者との距離感をしっかり持った人になることが、そのまま生きる力になるということです。

清和は設立当初以来キリスト教による教養教育をおこなってきたのです。

 
AI人工知能の社会の中で

私たちはこれまでに体験したことのない問題に直面させられていきますAI人工知能の進化です。

英国のある大学が2年前に8年後に今ある職業の47%がなくなると発表しました。

なくなる職業には高度の知識、デュナミスが必要な仕事が多く含まれています。裁判官、弁護士、医師、パイロットや運転士、教師も含まれます。

地球規模の大量リストラが始まるわけです。その発表から2年経った今、加速度がついています。

先月A1が作った司法試験の予想問題の結果が公表されていました。

現時点で60%の正答率です。あっという間に100%近くになると考えられます。

これによって、多くの立場の人がリストラされる、不必要になります。

進歩と幸福を求めて人間が作り出したAIによって、職業のリストラではなく人間の存在そのものが不必要になる、ムダとなる、そういう時代に入っていくわけです。

清和は120年前に周囲から不必要とされた少女を、存在そのものを否定された人を受けとめることからキリスト教による人間教育を始めた学校です。

 
就学支援金制度による授業料の無償化

自分が内側に持つ力を引きしてくれる教育を受けることによって、どういう時代にあっても、そこを生きていける人を育ててきたと申し上げることができます。

今年は清和という学校の存在の意味についてお話させていただきました。

そうした教育をする清和に関心はあるけれど、実際のところ私立でお金が高いと思われることが多いのですが、私立も10年前から国の就学支援金によって、公立高校と同じように授業料が無償になっている生徒や半分以下で済んでいる家庭もたくさんあります。

お手元にある学校紹介パンフレット、昨年度のものですが、そこに具体的なことを載せていますので、そこを読んでいただくと、清和は案外お金がかからない学校と安心していただけると思います。

10月の消費税の値上げとも関係するのですが、国は来年度、収入590万円以下の私立高校生には授業料等の完全無償にする方向で進んでいます。

これによって相当数の家庭の授業料が無償になります。

そのあたりをご理解いただくと、清和という高校を身近に感じていただけるのではないかと願っています。

 
清和学園は、女子校だから、小規模校だから、少人数教育だから、
一人ひとりの能力ではなく存在と個性を大切にできるのです。

 清和学園は建学の精神に基づいて、118年前より一人ひとりを大切にする女子教育に励んできました。それによって自己肯定感を持つ存在を育成することを願ってきました。しかし近年力不足もあってか、本校の目指す教育を各学校にお伝えできずきました。本当に申し訳なく思います。そこで今年度よりあらためて本校の目指す教育について各学校の先生方にご理解をいただけるよう努力してまいります。

 清和学園が創立時より大切にしてきたのは、一人ひとりの存在と個性を大切にする教育です。多くの学校が能力を第一と考え教育を行います。しかしそれだけが教育のすべてではありません。それだけではその子が持つ良さや学ぶ意欲を引き出すことはできません。そこで清和学園は学力の優劣だけで評価するのではなく、また能力を競わせるのではなく、一人ひとりが持つ人格や個性そして痛みなどを真正面から受けとめることによって、生きる力や学ぶ意欲を引きだす教育に励んできました。せかずあわてずじっくり共に成長していく教育です。結果的にそれがその子の成長をより早く促すことになります。

 個性にはプラスに見えるものだけでなく。その子の持つ学力の差異や特性そして学校での生きづらさなども含まれます。一般的な評価からすればマイナスの要素もまた個性です。そこで清和学園はそうした個性をキリスト教の人間観や価値観によって積極的に受け入れています。清和学園は毎日の学校生活の中で、その子の持つ個性をそのまま受け入れることによって、安心して過ごせる学校、その子が持つ本来の良さを引きだす学校を目指しています。以上、先生方に清和学園の教育の姿勢を少しでもご理解いただければ幸いです。

 もし個人的な学校見学やご相談をご希望される生徒や保護者がおられましたら、遠慮なくお知らせください。校長を中心に精一杯対応させていただきます。

 

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