礼拝の話

2024/04/26 

4月18日(木)キリスト教教育週間④ 聖書 詩編 82編1~4節/コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章9~10節 校長 小西二巳夫

入学礼拝で、教職員からの歓迎の歌として「ジャンピング・ジーザス」の賛美歌「強いとき認められて」を贈りました。

1番の「強いとき認められて」の次は、「弱れば捨てられて」となります。

弱いのは何の価値もないとはっきり言います。実に失礼な言葉です。

でもそういう考え方が当たり前だと清和に来るまで思っていた人少なくないはずです。

しかしそれが決定的に間違っていると、リフレインと2番の歌詞で言い切ります。

そうではなく「神の目には尊い命、宝物」だと宣言しています。

3番は気持ちの弱い人、捨てられた気持ちになっている人、自分はもうダメな人間だと思い落ち込んでいる人のところに、友だちとして主が寄り添ってくれるとあります。

4番は一人ひとりには無限の価値があることを示すために、主イエスは十字架に掛かられたことが歌われています。

実はこれはキリスト教だけの考え方ではありません。人はもともと弱かったのです。

私たちの祖先はカタカナでヒトと書くヒト科の生き物です。

ヒト科には20種類以上の生き物がいたことがわかっています。

ヒト科で唯一生き残ったのが最弱の、そして私たちの祖先のホモ・サピエンスです。

ホモ・サピエンスは、自分たちは体が華奢で弱いとの自覚を持っていました。

ホモ・サピエンスの意味は「賢い人」です。

ホモ・サピエンスが優れていたのは、自分たちの弱さを忘れることなく考え続け、学び続ける存在になっていったからです。

それを別の学術用語で「ホモ・ディスケンス」と言います。

意味は「学び続ける人」です。

ホモ・サピエンスはホモ・ディスケンスになることで生き残ることになったのです。

今朝の詩編82編では、弱い人、苦しむ人、乏しい人の存在が大切であると表現しています。

それは弱い立場の人を切り捨てたり、追いやったりすることが、結局は国や民族全体が滅ぶことにつながるからです。

そして、コリントの信徒への手紙では、主イエスの弟子でキリスト教を全世界に広めたパウロが弱さの大切さをわかりやすく説明してくれます。

9節に「力は弱さの中で発揮される「大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と言います。

さらに10節で「私は弱い時にこそ強いからです」と書いています。

その理由は心や体が弱っている時には、必ず主イエスが自分の傍らにいてくれる、と言う信仰に立っているからです。

主イエスが私の救いのために十字架に掛かってくれた、それを信じることから生まれる信頼です。

詩編82編を書いた人やパウロが、人間の祖先であるホモ・サピエンスのことを知っていたわけではありません。

知らないけれど、本当の強さとは何かを考える想像力を持っていたのです。

そして、今自分が生きている世の中をしっかり見て、神がこの世界に本来何を望んでいるのかを伝えようとしたのです。

私たちは弱さを大切にする強さが本当の強さであること、そして豊かに生きるためには、それを忘れてはならないことを歴史的に学んできたはずです。

しかし現代社会は弱さを平気でダメなものと決めつける風潮が強くなってきました。

だからこそ、キリスト教の学校清和は、自分の弱さを受け入れ、他者や社会の弱さを認めることの大切さを教育の中心に置いてきました。

毎朝の礼拝を通して、聖書の授業を通して、その考え方をしっかり身につけてもらう人になってもらうために、ここにいる私たち、それは教職員も含めてですが、清和の一員に選ばれたのです。

そのことをしっかり心に刻みながら3年間を過ごすことが、神の愛に応えることになります。

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