礼拝の話

2020/11/25 

11月25日(水)聖書 ヨハネの手紙Ⅰ 4章7~11節 日本キリスト改革派 高知教会 小澤寿輔牧師

今朝は私が尊敬するクリスチャンの一人、杉原千畝さんについてお話します。

杉原千畝さんは「日本のシンドラー」とも呼ばれている人です。

第二次世界大戦中の1940年、彼は外交官としてリトアニアという国の日本領事館に赴任しました。

その頃、ナチス・ドイツのユダヤ人に対する迫害が激しくなり、ものすごい数のユダヤ人難民が歩いてリトアニアの首都カウナスに逃げて来て、日本領事館の前に集まってきました。

彼らの願いは、ソ連を通り、日本を経由して他の国に逃げるために、日本通過ビザを発給して欲しいというものでした。

周りの国々はドイツとの戦争に敗れ、逃れる道が絶たれたユダヤ人たちが生き延びるためには、日本経由の道しか残っていなかったからです。

杉原さんは、早速、日本の外務省に電報を打ち、日本入国許可のビザを発給しても良いかと聞きましたが、外務省からの返事は「ノー」でした。

このままユダヤ人難民を放っておけば、彼らが強制収容所に入れられるのは目に見えていました。

生きるか死ぬかの狭間に立たされたユダヤ人たちの悲痛な姿を見て、杉原さんは悩みました。

日本の外交官として国の命令に従うべきか、それとも国の命令を無視してでも人々の命を守るべきか。

なかなか答えを出せず、悩み、苦しんだ末、彼は独断でビザ「命のビザ」を発給することを決断しました。

杉原さんは「私を頼って来る人々を見捨てるわけにはいかない。もし彼らを見捨てれば、神に背くことになる」と奥さんに言ったそうです。

杉原さんは「神は愛である、愛は神である」という今朝の聖書の言葉をよく口にし、神の言葉に背かない生き方をすることを心がけていたようです。

その1ヶ月後、ソ連軍がリトアニアを併合し、外国領事館の退去命令が出され、更に1か月後の9月1日に杉原さんがリトアニアを去らなければならない時が来ました。

杉原さんは退去期限ギリギリまで、不眠不休でビザを書き続け、一人でも多くの命が救われるようにと、ベルリン行きの国際列車の駅のホームでも、列車に乗ってからも、窓から身を乗り出して、必死にビザを書き続けました。

このようにして、杉原千畝さんが2ヶ月にわたり発給し続けたビザによって救われたユダヤ人は、6千人以上と言われています。

終戦後、杉原さんは日本に帰国すると、国の命令に背いてビザを発給したことによって、外務省を退職させられてしまいました。

ビザを書いてから28年が経った1968年のある日、突然イスラエル大使館から杉原さんのもとに「あるユダヤ人があなたに会いたいといっている」と電話がかかってきました。

行ってみると、そのユダヤ人は、一枚のボロボロになった紙切れを見せて「あなたが書いて下さったこのビザのお陰で、私は救われたのです」と言いました。

二人は抱き合い、握手をして再会を喜びました。

翌年の1969年、杉原さんはイスラエルに招待され、ユダヤ人を救った外国人を讃えるための記念館に案内され、杉原さんは、大臣から勲章を受けました。

さらに1985年には、イスラエル政府より「諸国民の中の正義の人」に奉げられる章も受賞しました。

このことが新聞やテレビで報道され、騒がれ始めたとき、彼はただ一言「当然のことをしただけです」と謙遜に語りました。

杉原千畝さんは、このようにして神さまからの特別な取り扱いを受けて、心の慰めと癒しをいただき、晴れやかな心で晩年を過ごしたことでしょう。

今日は「神は愛である」という聖書の言葉に忠実に生きた杉原千畝さんを用いて、神さまがこのような美しい業をなされたことを、心に留めたいと思います。

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