清和女子中高等学校。創立113年の高知県の私立女子校。キリスト教主義の中高一貫校です。
2021/06/08
今プロ野球はリーグの違うチームが試合をする交流戦の真最中です。
野球にはキリスト教に関係する用語や考え方がよく出てきます。
打たせないために、わざとボール球を4つ投げる「敬遠」があります。
「敬遠」のもともとの意味は、神さまや鬼は怖いという考え方に関係します。
怖いものには近づかないで遠くから見るようにしようという宗教的な言葉です。
犠牲バントは自分がアウトになることを承知で、バットにボールを当てて転がし、塁に出ているランナーを次の塁に進めるための方法です。
人間の罪のゆるしのために十字架の犠牲になったイエスを思い浮かべたくなります。
しかし、キリスト教は自己犠牲を求める宗教ではありません。
イエスが代わりに犠牲になったら、あなたは犠牲になる必要はないという宗教です。
桑田真澄さんという高校野球、プロ野球で活躍したがいます。
桑田さんは本の中で「エラーは絶対だめだと教えられます。ミスしたら負けるぞと言われます。でも、エラーしてもいいんです。エラー・失敗をあるものとして認めるのが野球です。エラーは必ずするものです。大事なのはどうしたらエラーを少なくできるのかを、自分で考えることです。」と書いています。
桑田さんは失敗を悩むのではなく、考えることが大事だというわけです。
これは学校生活にそのまま当てはまる言葉です。
すべてうまくいっている、順調ですといえる人、いるでしょうか。
それとも、自分はたくさんの失敗・エラーをしていると考えているでしょうか。
もし、すべてうまくいっているとしたら、それは何かを忘れているのだと思います。
毎日の学校生活を考えた時、たいていに人は、自分のエラーが思い出されるはずです。
そこで考えたいのは、失敗も2種類あるということです。
1つはやってはいけないことをやってしまったというもので、すぐに気がつきます。
それに対して、もう1つ気がつきにくい失敗があります。
それはするべきことをしなかった、ことです。
清和の生徒として、一人の人として、するべきことをしなかったというのがあります。
人として考えるべきことを考えなかった、取り組むべきことに取り組まなかったというものです
そしてこっちのほうが、よりゆるされないとキリスト教は考えます。
先程読んでもらった聖書の登場するのは、イエスの弟子のペトロです。
この場面の少し前のことですが、イエスの言葉を遮るようにペトロは「もしあなたがユダヤの権力者たちに捕まりそうなったら、私が必ず守って見せます。私はどこまでもあなたについていきます。」と言いました。
実に格好よく見栄を切ったのです。
ところがイエスさまは、その場面になったら、お前は3度私を知らないと言って逃げるだろうと言われました。
実際その通りになりました。
ペトロは恥かしげもなくイエスなど知らない、私には関係ないと言ったのです。
ペトロはまさにするべきことをしなかったのです。
鶏の鳴き声を聞きながら、自分は絶対にゆるされないだろうと思ったのです。
ところが、逮捕されて連れていかれる時に振り向いたイエスの眼差しは怒ってはいませんでした。
そのまなざしはペトロへのゆるしであふれていたのです。
その眼差しを見たとき、ゆるされない失敗をした自分がなおゆるされていることがわかったのです。
そして声を上げて泣かずにはいられなくなりました。
泣きながら、これから自分がどのように生きたらいいかを考えたのです。
この出来事以降のペトロの生き方は「主なる神を愛し、そして隣人を自分のように愛する」ものになりました。
清和で学校生活をするということは、自分がゆるされていることを自覚することです。
失敗をゆるされて今を生きている、そのことをしっかり自覚することです。
ゆるしに応えた生き方とは何かを具体的に考えることです。