清和女子中高等学校。創立113年の高知県の私立女子校。キリスト教主義の中高一貫校です。
2022/07/20
何気なく見ていたテレビ番組で、ハッとさせられることがありました。
ある番組で、視聴者から送られてきた疑問についてスタッフが実際に取材をするというものでした。様々な疑問の1つに、いつも犬を連れて散歩をしているおばあさんが気になるので調査してください、という依頼がありました。実際にテレビスタッフが現地で取材をすると、その町のほとんどの人がおばあさんのことを知っていました。
そのおばあさんは、毎日手押し車を押しながら、犬と一緒に散歩をしているようです。おばあさんの気になる行動というのが、犬と一緒に散歩をしながら、すれ違う人、すれ違う車、全ての人におばあさんが「ペコリ」とお辞儀をすることです。
テレビ局に調査を依頼した人も、知り合いでもないおばあさんが、毎日、すれ違うたびにお辞儀をされるので、なぜお辞儀をしているのかを知りたいと思い、調査依頼をしたようです。スタッフの「なぜお辞儀をしているのですか」という問いにおばあさんは次のように答えました。
「歳をとって一人で過ごしているから、どこで何があるかわからりません。だから、もし万が一のことがあったら、誰かに気づいてもらいたいし、誰のお世話になるか分からないので、お辞儀をしているんです」。おばあさんのこの答えは、私の想像を遥かに超えるものでした。
おばあさんはいずれ自分が人のお世話になること、それが誰かは分からないことを自覚し、その誰かに対して先にお礼をしておきたかったというのです。おばあさんが通りかかるすべての人にお辞儀をしていた理由は、お辞儀をされていた人には分からない「不思議な行動」で、とても気になるものでした。毎日繰り返されるおばあさんのお辞儀は、その本当の理由が分からなくても、それを毎日見続けた多くの人の心にしっかりと刻まれていたのだと思います。
おばあさんのお辞儀は、親戚でもない、知り合いでもない、今まで話したことも、直接関わったことのない人でも、決して無関係な存在ではなく、関係のある一人ひとりであるということを気づかせてくれるものでした。
今日の聖書の言葉には「ひとりよりもふたりが良い」とありました。ここで聖書が言いたいことは何でしょうか。それは、誰一人として完全に周りとの関わりを断ち、ただ一人で歩む者は決していないということです。完全に孤立し、誰からの助けも受けていない人は決していないということです。聖書は、たとえ自分が孤独を感じていても、決してそうではないことを約束してくれています。
倒れても助けてくれる人がいない、独りぼっちで暖まることができない、そのように思うことがあっても、決してあなたは一人ではないということを、聖書は神の言葉とイエス・キリストの十字架によって約束しています。目で見ることのできない神は、「独りぼっち」と思ってしまうそのような時でも、決して私たちのことを忘れずに見守ってくれています。
私たちの罪の身代わりとなられたイエス・キリストは、「誰も助けてくれない」と思ってしまうそのような時に、その苦しみを分かち合い、ともに歩んでくれています。今日の聖書箇所は、私たちが決して一人で歩んでいるわけではないことを力強く語ってくれています。見ず知らずの人にでもお辞儀をし続けるおばあさんは、おばあさん自身が気づかないうちに、多くの人の心に、その姿を刻みました。私たちは日々、多くの人との関わりの中で生活しています。そこで関わる人々から、自分が気づかなくてもたくさんのものを与えられているのだと思います。
今日一日の歩みも、周りの人からたくさんの恵みを与えられていることに感謝して、過ごしていきたいと思います。