礼拝の話

2020/09/14 

9月14日(月)聖書 マタイによる福音書 28章16~20節 校長 小西二巳夫

9月中旬になると、高校1年生の1学期終わりの三者面談のことを思い出します。

期末試験の成績は48人中43番、このままだと進級は難しいでしょうといわれました。

そもそも入りたくて入った学校ではない、という思いがありました。

そうした思いもあり、部活はハンドボール部に入りましたが、熱心に練習するわけでもなく、夏休みの練習もずるずると行かなくなり、悪い意味で適当な学校生活を過ごしていました。

そうして迎えた2学期。

始業式には出ましたが、次の日から行かなくなります。

休みと余計に行きたくなくなり、見事に逆スパイラルに入りました。

それから2週間経った土曜、担任から連絡がありました。

駅前の喫茶店に出て来いというのです。

数学の先生で、部活の顧問、頭は角刈り、ヘビースモーカー、高知人。

高知の男の人の総称に「土佐のいごっそう」がありますが、その先生はまさにイメージ通りの人でした。

顔を見るなり文句を言われる、怒られるのだろうと想像しました。

待っていた先生は煙草をふかしながら「何食べる」。

挨拶をする私に返事をするどころか要件から入る、これは今考えると高知の人らしいと思います。

自分が何を注文し、食べたのか覚えていませんが、1つだけ私の記憶に残っている言葉があります。

「小西、俺はお前の味方や」

すべてと敵対していたような私に「俺はお前の味方や」との言葉がかけられたのです。

私は先生の「俺はお前の味方や」をその時、どう理解したのでしょうか。

もし可能なら、当時の私にぜひ聞いてみたいと思います。

この言葉がきっかけになったかどうかはよく覚えていませんが、学校に再び通い始めたことは確かです。

2学期の通知表を受け取ったとき、不思議なことが起こりました。

間違いなく2週間欠席したのに、欠席数が0だったのです。

ラッキーと思いましたが、しばらくしてふっと思いました。

2週間休んだにも関わらず欠席が0というのは、私は存在しなかったのと同じではないか。

この疑問を、卒業して30年経った時の同窓会で先生に尋ねました。

先生は私を喫茶店に呼び出したことは覚えていましたが、「俺はお前の味方や」と欠席が0の理由には「そんなことあったかなぁ」としかいいませんでした。

先生は今年の2月に亡くなられたので、これからもわからずじまいです。

しかし、先生の言葉はイエスが弟子たちに向けた言葉と見事に重なります。

イエスは「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言いました。

どういうことになっても、私は決して見捨てず愛する、私はずっとあなたの味方だといっているのです。

先生が忘れたかどうかに関係なく、「俺はお前の味方や」という一言はイエスが先生を通して、当時の私に必要な言葉を与えてくださったと受け止めています。

清和で学ぶということは、自分にかけられる身近な人の一言に、神が私を見捨てず、一緒にいてくださるというメッセージが込められていることを、前もって知ることができることです。

受けとめ方がどうであれ、私たちが今大きな恵みの中で学校生活を過ごしているのは確かなのです。

そう考えると、今日が私の悩みやしんどさを超えた希望の1日に変えられていきます。

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