礼拝の話

2021/02/04 

2月4日(木)聖書 詩編 66編18~20節 数学科 柳井

人はどんなときに頑張れるでしょうか。

人によって様々だと思いますが、私は昔から、家族や友人・仲間など「その人のために頑張りたいと思える誰かがいるとき」でした。

スポーツでいえば、個人対個人の競技よりも誰かと一緒になってチームのため、相方のために試合をつくっていく競技が得意でした。

中学校・高校の勉強も、そこそこ頑張ってきました。

なぜ頑張れたかというと、自分の将来や、進路のためというよりは、良い点数、良い成績を取って家族や、授業を担当してくれている先生を喜ばせたいという思いが原動力でした。

もちろんこの頑張り方が必ずしも正しいとは思えません。

自分のために、将来や進路を意識して勉強していくことは大切なことです。

でも、自分のために頑張ることは当たり前すぎて、私は頑張るモチベーションが上がりませんでした。

自分のために頑張ることが、なんとなく苦手だった私ですが、無意識のうちに、自分のための「お願い」は沢山してきました。

宝くじが当たりますように!

テストで簡単な問題が出ますように!

台風が来て、大学が休みになりますように!

楽して生きていけますように!

どれも、自分が頑張らずに済むようなお願いばかりで、自分勝手、自分中心の「お願い」をしてきた私ですがこの清和に来て、価値観がガラリと変わりました。

自分のための「お願い」ばかりをしてきた私がこんなにも、他者のために祈れる人たちに出会ったのです。

聖書の言葉を借りると、「隣人ファースト」。

朝の職員室での打ち合わせでは、お祈りをして1日を始めます。

朝のチャペル礼拝、帰りのホームルームでのお祈りもあります。

明日の卒業礼拝も高校3年生のことを、清和に関わるみんなが心から祈ってくれています。

清和でのお祈りが毎日の習慣になってから、心と生活にゆとりを持てたように感じます。

そして、お祈りをするだけでなく、逆にお祈りしてもらう経験もありました。

夜眠れないくらいの、人生の岐路に立たされている時期があり、その時に家族でも親戚でもない「私のため」に祈ってくれた先生がいました。

自分のことを分かってもらえたような、気持ちが楽になった気がして、自然と涙が出てきたのを覚えています。

「あぁ、清和に来るまでのこれまでの人生の中で、何度もいろんな人に応援してもらったことはあったけれど、直接言葉に出してお祈りしてもらったことはなかったな」とハッと気づきました。

私たちは、自分が他者に与える影響に限界があることを知っています。

そんなとき、祈ることこそ他者に影響を与える最良の方法かもしれません。

お祈りは、結果が見えるまでに時間がかかることもありますが、私たちが他者のために祈るとき、私たち自身も今までと違う何かを経験するのです。

この2週間、高3の帰りの礼拝では、担任・副担任がずっとお祈りを担当してきました。

卒業を間近に控えた高3のために何かできることがあるとすれば、祈ることでした。

祈ることはできる、これがどれほどありがたかったことか、身をもって知りました。

高校3年生が清和で学んだことはたくさんあると思います。

「お祈り」もその中の大切な1つです。

「その人のために頑張りたいと思える誰かがいるとき」頑張れる、やる気が出る私ですが、この1年間は、特に高校3年生のために頑張りたいと思えた1年間でした。

放課後、土曜日、夏休み、生徒の皆さんが頑張る姿を見て、私も、自分のために頑張ってみるか、そう思えた1年間でした。

高校を卒業後は、一人ひとりが自分の道を歩んでいくことになります。

離れていても、お互いに無理をしない程度に頑張っていきましょう。

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