礼拝の話

2020/03/06 

3月6日(金)ヨハネによる福音書 1章1~5節

 先日、あるドラッグストアで勤務する店員さんの話をネットの記事で読みました。

コロナウィルスよりも怖いのは人です、と綴った店員さん。

マスクの入荷もままならず、紙製品も不足する中で、店員さんは頭を下げ続け、お客様の対応に苦心され、楽しかった職場が、辛い職場に変わってしまったことが痛切に伝わります。

 不安な心理が、人の行動をエスカレートさせているのでしょう。

しかも、今は昔と違って、様々な情報が大量に溢れています。

全てが正しい情報ではなく、噂やデマも多分に含まれているのが現状です。

憶測で話した内容、冗談半分で流した情報、人々の不安から生まれた誤った情報が、日本全体に大きな影響を与えた事例は、過去の歴史においても多々あります。

私たちは複数の情報を比較しながら、何が必要な情報なのかを取捨選択することが求められているのです。

 数年前、高知市内で行われた講演会で講師の方が「人は信じたい情報だけを信じるものです」と言われたのを今でも覚えています。

多くの情報が流れる中、人は「正しい」「正しくない」ではなく、自分にとって「都合がいい」「そう思いたい」という情報だけを得ようとする、というのです。

確かに、自分の耳に痛い言葉、自分の想いとは正反対の意見、自分が否定的に捉えている事柄などに関して、どれだけその言葉や情報を受け取り、比較し、判断をしているでしょうか。

 アメリカの研究機関によると、日本人はネットの情報やSNS上での会話を受け取る力が他の国と比較して低いという結果が出たそうです。

この情報も安易に「正しい」とは言えないかもしれませんが、「なるほど」と思わされます。

それは、SNS上のトラブルが、書き込まれた内容の真意を捉えず、表面的に受け取ってしまったり、短い文章でのやりとりで、言葉が足りずに誤解を与えてしまったりすることで起きているように感じるからです。

相手の表情を見ながら会話をする時、分かっていることは説明を省略し、簡単に会話をします。

相手が理解しているか、していないかは、表情を見れば分かるからです。

だから、この原稿のように、面倒くさい言い回しや、回りくどい言い方など、普段の会話ではしません。

友だちとの何気ない会話や、お互いがある程度理解している話については、長々と説明する必要はありませんし、大胆に言葉を省いても差し支えありませんが、パソコンやスマートフォン越しで、しかも文字だけの情報となると、短い文章では伝えきれないことが多いはずです。

そもそも日本語は「行間を読む」ことが必要とされる言語といわれ、はっきりした物言いをせず、「これは分かってね」と、暗に言葉を省略することが多いものです。

だからこそ「行間を読む」、そこに記されていない「言葉」「相手の想い」をくみ取ることが必要でしょう。

これは、情報を正しく読み取ることも同じではないでしょうか。

何が正しい情報なのか、それを読み取る力も、根本的には相手の言葉を受け取る力に通じると思います。

今、私たちに求められている力は、言葉を理解する力なのかもしれません。

今日の聖書には、「初めに言葉があった。言葉のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。」とありました。言葉はイエス・キリストのことです。

その言葉に命があり、それは人間を照らす光であったと聖書はいいます。

情報が溢れかえる今、本当の命の言葉を大切にしたいと思います。

そして、私たちに必要な情報は何かをしっかりと見分けることができるように、相手の言葉の真意をしっかりと受け取ることができるように、今日も聖書の言葉から学びたいと思います。

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