礼拝の話

2022/06/14 

6月10日(金)学校記念日礼拝 聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 4章16~18節 日本基督教団 高知東教会 益 敏牧師(1966年卒業)

清和で学んだことが、今の自分にどのように生かされているかと考えてみると、清和で学んだことはたくさんあります。

今の自分の生き方もなかなか一口では言えませんが、いろいろ思いめぐらしてみると、清和に入学する前の自分と、入学した後の自分との決定的な違いが見えてきました。

私は、清和女子高校に入学する前は、不平不満でいっぱいの生活を送っていました。

家族、学校、いろいろなものに対して反発していました。

高校に行かずに就職するといったものの、就職の仕方も知らなかったので高校には行くことにしましたが、その時ほとんどの学校の入学試験は終わっており、受験できる学校は清和ともう1つの学校だけでした。

迷わず清和を選び、学校生活を送る中で高校2年生で受洗を希望しましたが、実際に洗礼を受けることができたのは、高校を卒業したイースターの時でした。

そのあとも、私の身の上には、たくさんの辛い困難な出来事が起きました。

本当になぜ、どうして、と神さまに問うような、悲しみ、苦しみが続きました。

ところが、その困難なことを通して、神さまは必ず私を神さまのみもとに引き寄せて下さいました。

清和の入り口に「神は愛なり」という御言葉が書かれた石碑があります。

その通り、困難な出来事そのものは嫌なことなのですが、そのあと、必ず神さまは私を愛して下さっていることを示してくださいました。

私が生まれた時からずっと、神さまは私を愛し、救おうとしてくださり、見守り続けて下さっていると思わせてくださいました。

清和で学んだこと、それは、目に見えない神さまの世界があるということです。

目に見えない神さまの世界があって、この神さまの世界こそが、真実な世界であるということです。

この真実な世界は、目には見えませんが、私たちの現実の世界のすべてを包み込んでいます。

私たちは、この目に見えない世界に気づかされ、信じさせられた時、自分の生きる意味が変えられます。

悲しいことが悲しいだけではなく、苦しいことが苦しいだけではないのです。

私は、こんな両親のもとに生まれて不幸だと思っていました。

嫌な思いばかりしてきて、損な人生だと思っていました。

でも、この両親がいたから私は清和に入学するように導かれました。

清和に入学して、神さまに出会い、自分の罪深さを知り、罪を赦される神さまを知りました。

愛の神さまに出会った時に、私の人生は変えられました。

過去の嫌な思い出が、すべて私にとって意味のある出来事になりました。

清和で学校生活を送っているみなさん一人ひとりも同じです。

神さまはなぜか、あなたを選び、この清和に招いて下さいました。

あなたの人生の意味を変えるためです。

あなたをお造りくださった神さまは、あなたをここに生かして下さっています。

あなたの命をどこまでも生かしたいと願っておられます。

あなたがどのような心を持っていたとしても、神の子イエス・キリストはすべてご存知の上で、あなたを受け止め、助け、救おうとして下さっています。

「私もあなたを罪に定めない」そう言って、あなたを立ち上がらせてくださいます。

そして、新しい今日という一日をお与えくださいます。

私たちは、暗い過去を背負って、後悔して生きていくのではありません。

イエス・キリストが、過去のすべてを赦してくださっているのですから、私たちは、今日という新しい一日を心軽やかに迎え、生かされて行きます。

今日という日は、神様がお与えくださった真っ白な新しい人生の1ページです。

私が清和で学んだこと、それは、新しい一日を生きるということです。

「日々、新たに生きる」ということです。

どんな時にも、キリストが私の味方です。

キリストは、目には見えないお方ではあっても、いつも私たちのずっと下の方にいて、私たちをしっかりと受け止め、立たせてくださいます。

だから、清和の生徒は、キリストに支えられて、何があってもへこたれない人生を生かされて行きます。

自分が強いからではなく、目に見えないお方が、自分を支えて下さっていることを知っているからです。

これからも、清和学園は、目に見えないお方に目を注ぎ、日々新たに生かされることを学び続ける学園として、神さまが存続させてくださることを信じます。

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