礼拝の話

2022/06/10 

6月9日(木) 聖書 マタイによる福音書 26章51~54節 日本キリスト改革派 山田教会 高内信嗣牧師

牧師になる学校で勉強していた時、先生たちの前でメッセージをするという演習がありました。そのメッセージの中で私はイエス・キリストを信じる者たちが受けた迫害についてお話ししましたが、うまく語ることができませんでした。なぜでしょうか。

それは自分が経験していないからです。その演習の中で神学校の校長先生から「本を読め」というアドバイスをいただきました。

「あなたは迫害も拷問も受けたわけではないのだから、実際にイエス・キリストを信じることで迫害を受けたことのある本を読みなさい」と。

これは今も私自身の生き方に深く関わるアドバイスでした。本を読むということによって、その人の人生を経験することができます。私たちはこの世にあるすべてのことを経験することはできません。ですが、本を読むことによって世の様々な知識や貴重な体験を知ることができます。

「戦争」についてもそうです。私たちは今、戦争を経験していません。だからこそ、その悲惨な状況に巻き込まれた人の言葉をよく受け止めることが大事だと思います。

岩波ブックレットから刊行された「アウシュビッツ生還者からあなたへ 14歳、私は生きる道を選んだ」という本に、1944年にアウシュビッツ強制収容所へ送られ、生還したリリアナ・セグレさんの最後の証言が記されています。

第二次世界大戦の時代、ナチス・ドイツは周辺の国々に侵攻しました。セグレさんは13歳でアウシュビッツ強制収容所へ送られることになったのです。セグレさんを含めた30人以外はすぐにガス室に送られたそうです。何もしていない人たちが、「ユダヤ人」ということだけで簡単に殺されていく現実が、80年前にこの世界で起こったことなのです。

そして今も、この世界において血が流される現実が続いています。

この証言の最後にセグレさんはこのような出来事を語っていました。いくつかの収容所を転々とさせられた後、マルヒョー収容所での出来事です。いつも鞭を振るう、冷酷で残忍な所長が彼女のすぐ近くで、着替えをはじめ、拳銃を地面に置いたそうです。セグレさんは自分をこんな目に遭わせたナチスを恨んでいました。復讐の機会を熱望していました。

拳銃を手に取り、引き金を引くことができる状況でした。しかし、その瞬間、セグレさんは気づいたのです。

「私はどんなことがあっても人を殺すことはできない。このような人たちのようになってはいけない」。

その選択をした瞬間、彼女は「平和の世界に戻ることができた」と語ります。

本日の聖書の箇所は、イエスが捕らえられる場面の出来事です。

イエスが捕らえられた時、一人のイエスの仲間が、剣を抜いて、イエスを捕らえた者たちの仲間に打ってかかり、その片方の耳を切り落としました。この時、イエスは「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」とおっしゃいました。イエスはたとえどんな状況であっても暴力を望まれませんでした。

しかし、それは人間の暴力に対抗する力がイエスさまになかったわけではありません。

聖書には「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。 しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」とあります。人間に対抗する力をイエスは持っていました。

しかし、その力を用いませんでした。

イエスは暴力を用いず、かえって自らが十字架に架かり、痛みを受け、人々の痛みを背負という形で、神の御心を実現させました。一人ひとりを愛し抜いてくださったのです。

それが神の御心でした。

自分の怒りをコントロールすることは難しいです。理不尽・不条理なことが降りかかればなおさらです。しかし、暴力も、復讐も、怒りも、そこには虚しさしかありません。

さらなる暴力を生むしかないのです。だからこそ、このチャペル礼拝で、私たちを受け入れてくださる神のまなざしを受け取りたいと思います。

そのまなざしを見つめてこの世で生きるならば、必ず私たちはこの悲惨な世の中を照らす光となるでしょう。

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