清和女子中高等学校。創立113年の高知県の私立女子校。キリスト教主義の中高一貫校です。
2020/07/03
「文学作品の最初の部分」をどれくらい覚えているでしょうか。
夏目漱石の作品『吾輩は猫である』の最初の部分は「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」です。
逆に、文学作品の最後の部分を覚えている人は、どれくらいいるでしょうか。
たぶんほとんどいないと思います。
先ほどの『吾輩は猫である』の最後の部分は「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。難有い難有い。」です。
名前のなかった猫が、台所のコップに残っていたビールを飲んでしまいます。
そのことで、誤って水がめに落ちて、猫は一生を終えることになります。
この場面の最後に出てくるのが、先ほどの言葉です。
文学作品の最初の部分は、作品の世界に、読者を連れていってくれます。
「どうなっていくのか知りたい。」という思いから、読者は作品の世界に入っていきます。
魅力的な最初の部分があると、先の方まで読んでみたいという気持ちにさせてくれます。
一方で、文学作品の最後の部分は、その作品の世界を、読者が振り返るきっかけを与えてくれます。
魅力的な最後の部分は、読者がもう一度読んでみたいという気持ちにさせてくれます。
このように、「始まり」にも「終わり」にも、大切な意味があるのです。
「始まりがあれば、終わりがある。」
当たり前のことですが、なぜか忘れがちになります。
特に終わりのことは忘れてしまっています。
何も考えないで過ごしていると、あっという間に期限が来てしまいます。
そのとき、「終わり」のあったことを思い知らされるのです。
聖書にもやはり「始まり」と「終わり」があります。
『旧約聖書』の最初の部分・創世記には、「初めに、神は天地を創造された。」とあります。
そして『新約聖書』のヨハネの黙示録の最後の部分は、「主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。」と結ばれます。
世界にさまざまな災難がふりかかる様子が語られ、さまざまな災難の後、一つの終わりを迎え、新たな世界の始まりが告げられます。
そのことを語った最後を、今日の聖書の言葉で結びます。
さまざまな災難の中にあっても「すべての者」に「主イエスの恵み」があるように、いう祈りの言葉です。
このような祈りの言葉は、『新約聖書』にある手紙の最後の部分にも出てきます。
そのことで、一つの書物が、この上もなく長い手紙のようにも感じられてきます。
生まれた場所も、生まれた時代も違うところから届けられた分厚い手紙。
それも「すべての者」にあてられた手紙です。
そこにある言葉は、日々の困難の中でも、私たちが安心して歩んでいけるようにしてくれます。
聖書の言葉に守られながら、今日も、それぞれの目標、終わりを意識した過ごし方をしていきましょう。