清和女子中高等学校。創立113年の高知県の私立女子校。キリスト教主義の中高一貫校です。
2022/01/26
今朝の聖書の箇所には「神は人を自分のかたちに創造された」、人間は神のかたちに造られたということが書かれてありました。
これは人間が胴体と頭と手足があるから、神さまも同じような身体をしているという意味ではなくて、人の命は神さまのように聖なるもの、特別で大切なものということが言われています。
「トリアージ」という言葉があります。
「トリアージ」の始まりは18世紀末のフランスで、「症状が重い人を優先的に治療して、症状の軽い人は後に回す」という選別のことでした。
身分制度の中で症状の重い、軽いに関係なく、身分の高い人を優先的に診て、身分の低い人が後回しになっていた状況をおかしいと問題提起する人がいて、身分の高い低いと関係なく、症状の重さで優先順位を決めようということを言い出したのが「トリアージ」の始まりです。
だから、本来のトリアージは、「身分の差別をしない」、「症状の重さだけで治療の順番を判断する」、「人の命は皆平等」、それがポイントだったわけですが、戦争が激しくなる時代の中で、だんだんとその「トリアージ」の本来の意味が薄れて行きました。
たくさんの戦争が行われる中で、「症状が軽い人を優先的に治療し、症状の重い人は見捨てる」という考え方が登場してきました。
それは、軽い症状の人を治療すると、早く回復するので、すぐにまた戦場で戦うことができるからです。
症状の重い人は、治すのにも時間も労力も費用も掛かるし、何より戦争を続けるのに役に立たないから放っておこう、死ぬに任せようという考え方が出てきてしまったわけです。
これは戦争という特殊な状況に限った話でしょうか。
銃を打ち合うような戦争でなくても、場所によっては経済戦争と呼ばれるようなところがたくさんあります。
「人の役に立つ人間になりたい」と思っている人はたくさんいると思います。
「役に立つ人間にこそ価値がある」と思っているとしたら、それは裏返せば、「役に立たない人間は存在価値がない」と思っているということにはならないでしょうか。
もちろん、「役に立つ人間になりたい」というのは立派な目標で、素晴らしいことです。
けれども、それとその人の存在価値や命の重さとは全く別の問題じゃないかな、と私は思っています。
役に立つ人間は生きる価値がある、役に立たない人間は死んでも仕方ない、そういう「命の選別」をしなければならないということになっているとすれば、それは戦争と同じ状況だということです。
新型コロナの影響下にある状況というのは、そういうことを考えなくてはいけないという喫緊の課題を、私たちに突き付けているのではないでしょうか。
そういう現実の中に生きているということ、自分だったらどうするかということ、それを少しでも考えてもらえればと思います。
そして、その考えるヒントのひとつとして、今朝の聖書の言葉「人は神さまのかたちに造られた」ということを共に覚えておきたいと思います。