礼拝の話

2024/02/07 

1月30日(火) 聖書 詩編 126編5~6節 音楽科 三浦

先週、高校2年生は校外研修旅行に出かけました。

清和で行う研修旅行の大きな目的は、平和学習です。

「平和」。

この言葉、聞き飽きましたか?

わたしは、この「平和」という言葉をいう時、聴くとき、いろいろなことを思います。

1945年に敗戦を迎えた日本は、2025年、来年、「戦後80年」を迎えます。

今年、2024年はそのような意味では「戦後79年」を数えることになりますが、同時に、新しい戦前、そして戦中を迎えた年になることが言われています。

来月には、ロシアのウクライナ侵攻から2年、イスラエルのガザ地区侵攻も4か月が経ちます。

そして、それに伴うさまざまな争い、攻撃への応酬を見ていると、どう考えても、もう第3次世界大戦は始まったのだ、と思わざるを得ません。

この思いが、取り越し苦労であることを願うのですが、なかなか世の中は厳しい現実のように思います。

「戦後80年」と言える日が来るようにと、祈らずにはいられません。

そのようなことを思う度に、本当にこの「平和」という言葉は、多くの悲しみの上にあるものなのだと思わされます。

「涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出ていった人は 束ねた穂を背負い 喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」

この詩編の言葉は、神の救いを待ち望みつつ、先に世を去った者たちの苦難と、この解放の報せを喜ぶ子孫の祈りが歌われています。

神さまは、その一人ひとりに、成功を追い求めなさい、とか、強くいきなさい、とは言っていません。

その小さく、弱い、わたしそのものとして、これからの日々も1つずつ大切に生きなさいと言われます。

わたしたちは一人ひとり、その蒔く種を持っています。

辛い苦しい中でも、神さまにより頼み、その一歩を踏み出す時、かみさまは、わたしたちにはわからない計画をご用意くださっています。

何の実がなるかわからない種でも、自分の人生の中の畑にその一粒を蒔いてみる、育てようと心に決めて進むときに、新たな道が示されるように思います。

高校3年生は、まもなく卒業の時を迎えます。

清和での6年間、3年間の学校生活を通してその存在が、神さまによしとされて集められた一人ひとりとして、ここにいることは確かです。

一人ひとり進み道は異なります。

今まで以上に大きな責任の中で歩むことになるでしょう。

その1つ1つの困難の中で、困ったとき、悩むとき、悲しみの時、また同時に、嬉しい時、喜びの時にも、ぜひ、聖書を開いてみてください。

きっとそこには、その時のみなさんに必要な言葉が示されるはずです。

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