礼拝の話

2022/10/26 

10月24日(月) 聖書 ヨハネによる福音書 8章7~11節 校長 小西二巳夫

「あずかりやさん」という小説があります。

ある日、電話で預かりの依頼がありました。

電話の相手は声の感じから中年の男性で、預かってほしいのは自分の声だというのです。

声を預かるとはどういうことかよくわかりませんが、特別な事情があることは確かです。

そこであずかりやさんは、声を録音させてほしいと言いましたが、相手は待ちきれずにしゃべり、そして電話を切ってしまいます。

それから1640日後に預けた物を返してほしいという人がやって来ます。

北林八重子という60歳を過ぎた女性でした。

八重子さんは夫の書斎にあった電話番号の書かれたメモを見て尋ねてきたのです。

夫が何を預けたのか知りませんが1640日分にあたる費用をすぐに渡そうとします。

あずかりやさんは、余程のことでない限り本人にしか預かり物を返しません。

そこでよろしければと事情を聴きます。

八重子さんによると、声を預けた夫は小児科の医師として誠実に働き、家庭の中でも夫として父親として、優しさにあふれていました。

その人、北林洋二郎さんが、若年性アルツハイマー症にかかり、病気の進行と共に温厚さも失い、それまでとは違う他の人の人格を傷つける言葉を吐くようになります。

行動も周りに迷惑をかけるようなことが増えていきます。

その度に八重子さんは迷惑をかけた相手に謝りに行くのでした。

電話番号のメモを見た時も、電話番号先に迷惑をかけたと思い謝りに来たのです。

事情を理解したあずかりやさんは、預かった声、言葉を八重子さんに返します。

それは次のような声でした。

「北林洋二郎 52歳 生きて来て最高にうれしかったベスト3は 八重子に出会えたこと、八重子と結婚できたこと、八重子のハンバーグを食べたこと、悲しかったことはみんな消えてしまうから 僕に残るのはそれだけ」。

八重子さんは洋二郎さんの声と言葉を返してもらいます。

そしてあずかりやさんに言ったのです。

「私にとって、お支払い金額以上に価値ある言葉です。私はこれさえあればやっていけます」。

「これさえあればやっていける」というのは夫洋二郎さんが自分に残してくれた言葉によって、これからの人生も希望をもって生きていけるということです。

一つの言葉に、これさえあればやっていけるとの気持ちを持った女性が、今日の聖書に登場してきます。

ある女性を、取り囲んだ人たちが石を投げて女性を痛めつける、石打の刑に処す場面です。

この時、女性を処罰する立場にあった律法学者たちには別の目的がありました。

女性の扱い方を大勢の人たちを前にイエスに答えさせ窮地に追い込むことでした。

女性を救うべきといえば、律法違反でイエスを追及できます。

律法を守るべきだと言えば、イエスは大勢の人たちからブーイングを受けます。

イエスの答え、それは黙って地面に文字を書き続けることでした。

焦った律法学者がイエスに答えるように迫ると、イエスは言いました。

今までに一度も罪を犯したことがない人から女性に石を投げればいい。

その場にいた人たちはアッと思ったのです。

生まれてから律法に違反したことはないで生きてきた人は1人もいないからです。

イエスの言葉をきっかけに人々は一人、また一人とその場からいなくなります。

残されたのはイエスと女性だけでした。

イエスは女性に一言いいました。

「私もあなたを罪に定めない」。

あなたの罪はゆるされている。無罪放免ですといったのです。

イエスの一言が、女性のこれからの生活に希望を与えてくれることになります。

イエスの一言によって、これからの人生をやっていけると確信したのです。

そして、もう一つ、イエスの女性への一言「あなたの罪はゆるされた」によって、その場を立ち去った大勢の人もまた、自分が石を投げないで済んだこと、そして自分の罪もゆるされていることに気づかされたのです。

私たちもゆるされて今を生きている一人ひとりです。

そのことに気づくことによって、1日1日の学校生活とこれからに希望を持てる自分になっていけるのです。

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