礼拝の話

2022/11/22 

11月21日(月) 聖書 マタイによる福音書 2章1~2節 校長 小西二巳夫

今日は賛美歌242番「主を待ち望むアドベント」を歌いました。

主というのはイエス・キリストのことです。

アドベントはラテン語で、待つ、向こうからやって来るなどの受け身の意味があります。

英語にすると「Wait」と考えることもできます。

進行形にするとウェイティング、待ち続ける、です。

ウェイティングから思い浮かぶスポーツに、野球とソフトボールがあります。

野球やソフトボールの戦術にウェイティングというのがあります。

相手ピッチャーのコントロールが悪い時に、バッターがバットを振らないでじっくりボールを見極めて待ったり、ピッチャーにプレッシャーをかけて、自分たちの攻撃を有利に持っていったりする方法です。

ウェイティング・サークル、ネクストバッターズサークルはバッターが待つ場所のことで、1塁側と3塁側にそれぞれにあります。

ルールでは次のバッターはウェイティング・サークルの中にいなければなりませんが、ウェイティング・サークルの中にいる限り何をしても自由です。

一流と言われる選手ほど、ウェイティング・サークルの中で集中しています。

ウェイティング・サークルの中でしっかり準備をして待つのかしないのか、それによって、ヒットを打つのか三振に終わるのか、結果や状況がまったく違ったものになるからです。

待つという意味のアドベントから出てきた言葉に意外に思えるものがあります。

アドベンチャー、日本語では冒険と訳されます。

冒険の意味は、辞書の説明では「何らかの目的のために、危険に満ちた体験の中に身を置くこと」と書かれています。

イメージとしては体を動かす、出かけていくという感じです。

受け身のアドベントと積極的なアドベンチャーではすべてが逆のような感じがします。

子ども向けの本には○○の冒険というタイトルがよくつけられます。

それを読むと、自分が冒険物語の主人公と一緒に行動しているような気持ちになり、ワクワクしたりハラハラしたりします。

そこからわかるのは冒険が体を動かしたり行動したりするだけではないことです。

冒険物語の主人公や登場人物の1人になったような気持ちで、頭の中であれこれ思い巡らすこと、考えることも冒険の1つなのです。

これを「知的冒険」と呼びます。

知的冒険によって動くのは心です。

自分のこれまでどうだったのだろうか。

このままでいいのだろうか。

自分が当たり前のようにふるまってきた態度、何の気なしに使う言葉、そのことで、周囲の人を傷つけたり悲しませたりすることはなかっただろうか。

注意されても聞き流してきたことに、本当は一番考えなければならないことがあったのではないだろうか。

そのようなことを自分の中で思いめぐらすこと、心を動かすことが知的冒険です。

そして知的冒険は自分のこれからを考えることでもあるのです。

それに答えを与えてくれるためにやって来られたのがイエス・キリストです。

イエスは人として最もふさわしい生き方はどのようなものか、と尋ねられた時に「神を愛し、隣人を愛しなさい。」と言われました。

神をないがしろにするような生き方、周囲の人をバカにするような生き方をすることは、結果的に自分のためにならないと、イエスは言われたのです。

アドベントは、イエスの言われた言葉や生き方を考える時間でもあるのです。

今日から始まるアドベントが、一人ひとりにとってウェイティング・サークルの中にいる時間であることに気づきたいと思います。

ウェイティング・サークルの中で知的冒険をするのかしないのか、それによって、それから先がまったく違ったものになることは明らかです。

清和の今年のクリスマス礼拝は12月21日、終業礼拝の日です。

その日までの4週間、イエス・キリストを迎えるにふさわしい自分になるよう、毎日の生活に取り組んでいきたいと願います。

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