清和女子中高等学校。創立113年の高知県の私立女子校。キリスト教主義の中高一貫校です。
2022/11/22
11月15日から始まった人権ウィークも、今日で最終日です。
昨日、皆さんが夏休みに作成してくれた、人権の標語を校内のいたるところに掲示しました。
どの標語もよく考えられていて、思いのこもったものばかりでした。
その中で、私が深く考えさせられた標語があるので紹介させてもらいます。
〈 「普通」じゃない あなたの「普通」 押し付けないで 〉
私たちは日頃からこの「普通」という言葉を使います。
「普通はこうでしょ」「普通ならこうするでしょ」と私たちがそれぞれに思っていることがあると思います。
では、この「普通」と何なのでしょうか。
何が「普通」で、何が「普通じゃない」のでしょうか。
今年度の学園祭で、中学2年生はジェンダーを考えるというテーマで、ランドセルの展示をしましたが、現在のランドセルは実にカラフルで、お店屋さんには色とりどりのランドセルが並び、その中から子どもたちが自分の好きな色や形を選び、それが今の「普通」です。
歴史の視点から見ると、第2次世界大戦中の日本では、お国のために勤めることが「普通」でした。
教育の中でもそれが「普通」であると教えられ、多くの人がそこに疑問を抱きませんでした。
今になって考えてみると、それが「普通」とは思えませんが、その時代に生きていた人たちにはそれが「普通」であり「当たり前」だと信じて疑いませんでした。
人が人として尊重されないことが「普通」とされる時代があったのです。
心の中ではおかしいと思っていても「普通」や「当たり前」という大きな力に抵抗する事ができなかったのかもしれません。
この他にも、世界中の歴史の中には、人種や住む場所、性別、肌の色、思想など「普通じゃない」と差別され、排除されてきた出来事やその当時の人が「普通」だと信じてきたことが、現代での「普通じゃない」とされる事柄は多くあります。
「普通」だと思っていたことが「普通じゃないかも」と気づいたとき、人はその都度「普通とは何か」を問い直し、現在の「普通」につながっているのだと思います。
「普通」の対義語を調べると「特殊」「奇抜」など色々出てきます。
そしてもう一つ「特別」という言葉が、「普通」の対義語として挙げられます。
「普通」という概念は、不確かなもので変わりゆくものです。
物事を判断する基準になる「普通」という概念が変わっていくこの世の中で生きていくうえで、変わらないものがあるとしたら、それは誰も「普通」ではない、ということではないでしょうか。
言いかえれば、一人ひとりが「特別」な存在と言えるということです。
誰一人として「普通」という不確かな概念に縛られることなく、「特別」な存在であることを私たちは互いに認め合い、尊重し合うことが大切なのだと思います。
今日の聖書箇所にも書かれています。
「私の目にはあなたは高価で尊い、私はあなたを愛している」
3500年以上も前に書かれた旧約聖書に、私たちは尊い存在であること、そして愛される存在であることが記されています。
これこそ、「人間が人間らしく生きる権利、生まれながらに持つ権利」である人権をお互いに大切にするための根本的な考え方ではないでしょうか。
最初にお聞きしたことを、改めて、少し変えて質問します。
「普通」の人って何ですか?
「普通」の女子高生、女子中学生って何ですか?
「普通」の教師って何ですか?
そもそも「普通」であることはそんなに大事なことですか?
〈 「普通」じゃない あなたの「普通」 押し付けないで 〉
人は誰しも、育ってきた環境も、積み重ねてきた経験もバラバラなのだから、一人ひとりが考える「普通」は異なります。
その違いがぶつかった時、自分の「普通」を押し付けるのではなく、お互いの「普通」を知ろうとすることが、お互いの存在を大切にすることにつながります。
この標語は、不確かな「普通」という概念にとらわれず、一人ひとりが「特別」な存在であることを改めて気づかせてくれました。