礼拝の話

2023/11/14 

11月7日(火) 聖書 箴言 17章1節 音楽科 三浦

10月29日の高知新聞の小社会が目に留まりました。

10日前に長野市にある松代大本営地下壕跡を訪ねたこと、そして、さらに今起こっている中東のガザ地区で起こっていることについて書かれていました。

今回の小社会にあった「松代大本営地下壕跡」は、高校2年生が研修に行く場所です。

小社会に書かれていたように、戦争末期、日本の中心にいた人々は、本気でこの、信州の山奥に自分たちが必要とする機関・戦争を指揮する大本営・天皇をはじめとする権力中枢機関などを、誰にも知られないように移し、何かあっても、ある意味自分たちだけは生き残る方法を考えていた、ということです。

私たちは原爆の現実を学び、また、これから実際に学ぶ松代が作られた背景をどのように受け止める必要があるのでしょうか。

この2つは、今「遺構」「遺跡」「資料館」として、わたしたちにその悲惨な現実を伝え続けています。

わたしたち人間は、忘れる生き物です。

自分に関係のないと思って、多くのことを過ぎ去ったものとしてしまう生き物です。

でも、そのことが次の悲劇を生むことになることは、歴史が、そして今の現実が証明しています。

世界で、またわたしたちの周りで、争いはなくなりません。

でも、その争いを減らすヒントが聖書にはあるのではないでしょうか。

今日の聖書の箇所には「渇いたパンの一片しかなくとも、平安があれば いけにえの肉で家を満たして争うよりよい」とあります。

平安とは、無事で穏やかなこと、と意味を調べると書かれています。

憎しみに憎しみで返している状況は、まさに「いけにえの肉で家を満たしている」状態ではないでしょうか。

わたしたちは、多くの被爆者が「No more Hiroshima , No more Nagasaki , No more Hibakusya」と語ってきたことを知っています。

自分たちが受けた傷を、痛みを、相手に、相手の国にやり返せ、同じ目に遭ったらいい、とは言いません。

いけにえの肉で家を満たして争うことよりも、貧しくても、十分な何かがあるわけではなくても、無事で、穏やかに、日常を送ることを心から望み、このNo moreを言い続けて78年です。

わたしたちは、その思いをしっかりと受け取り、これから先の未来を創るために生かされているのだと思います。

小社会の最後に、こうありました。

「ガザのトンネルが「遺跡」となる日を望む」。

本当にそう願います。

そのためにも、1つ1つ、1日1日を、しっかりと学び、考えるものでありたいと思います。

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