礼拝の話

2023/11/24 

11月9日(木) 聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章22節 日本キリスト改革派 山田教会 高内信嗣牧師

私たちが生きている世界は悲しい現実があります。

強い者が私腹を肥やし、貧しく、弱い者たちが搾取されることがあります。いつの世もそのような歴史が繰り返されます。

私たちが清和でイエスの愛を学ぶにあたって、私たちの周りは、弱い者たちが軽んじられるという世界であることを覚えておきたいと思います。

15年くらい前のことですが、北海道のある食堂で、悲しい事件がありました。

4人の知的障がいのある方々が何十年間にもわたって、給料も支給されず、受け取るべき年金もその店の主人に搾取され、こき使われていたのです。

その主人は、週に一度、銭湯に行くためのお金390円を渡していただけでした。

休みは月に2日だけだったと言われています。

休みなく働かされ、暴力も受け、食事も十分に与えられることもなく、劣悪な環境の中で、彼らはずっと我慢を強いられていたのです。

胸が張り裂けそうなほど、ひどい事件です。

けれども、このようなひどい状況の中で、心動かされるエピソードがありました。

このような劣悪な環境の中で週に一度の銭湯の日を楽しみにしていたといいます。

3人の女性のうちの一人が順番にお風呂に入るのを我慢し、その浮いた390円で3本ジュースを買って一緒に飲んでいた、というのです。

それが彼女達の唯一の楽しみでした。

彼女たちはひどい扱いを受けながら1週間働いて、やっともらった390円を、3人で分かち合いっていたのです。

これを聞いた時、胸が締め付けられるような思いがしました。

搾取し、お金を設けていた主人と、390円を三人で分かち合う女性たち。

どちらが人間として輝いているでしょうか。

言うまでもないと思います。

相手の存在を軽んじ、自分が幸せになればそれでいいと考えてしまうならば私たちは人間として落ちぶれてしまうと思います。

しかし、逆に、相手の存在を大切に考えて生きるならば、人間として輝くと言えるのではないでしょうか。

なぜなら、人間は助け合い、支え合う者として造られたと聖書に記されてあるからです。

清和で共に見つめているイエスは、弱い者を軽んじることはありませんでした。

私たち一人ひとりは色々なものを持っています。

自分を卑下する必要はありません。

自分自身を見つめ直すとき、私たちには本当に豊かなものが与えられています。

それを誰かのために用いることができるのなら、私たちは人として輝きます。

今日も共に分かち合いながら、イエスの愛を、私たちの現実のものとして行きたいと思います。

学校生活の様子

学校生活|中学校一覧へ

学校生活|高校一覧へ

学校生活一覧へ

礼拝の話一覧へ

中学・高校 学年の通信から一覧へ

クラブ活動一覧へ

▲ページトップへ