礼拝の話

2022/12/12 

12月7日(水) 聖書 テサロニケの信徒への手紙 5章 16~18節 保健体育科 山﨑

数日前にNHKのテレビ番組で「日本の有名な温泉地で、温泉が出なくなりつつある」という内容が取り上げられていました。

そこで取り上げられていた1つに、九州は大分県の別府市があります。

その説明によれば、地下1000mほどのところに、何千年という長い時間をかけて溜められた雨水や地下水があり、それを汲み上げるものを掘削泉というそうです。

別府温泉も掘削泉が用いられているそうですが、今から60年ほど前の高度経済成長期に温泉を汲み上げて使用する量が増えたことで、使われる量に対してお湯の溜まる量が追いつかなくなってきて、地下から吹き上がってくるお湯の勢いが弱まってきているということでした。

別府に限らず、全国のあらゆる場所で、この掘削泉が出なくなったり、湯量が少なくなったりしているところがあるそうで、使えるお湯が年々減っているという調査報告がされているとのことです。

私たちは安心して蛇口から出てくる水を口にすることができますが、そのために豊かな川を美しく保ち、飲める水にするために多くの人々の努力や支えがあります。

当たり前が当たり前ではなくなるということは水や温泉に限ったことだけではないかもしれないと、ふと考えました。

それまで、当たり前に使えていたものが使えなくなるというのは、温泉に限らず、私たちに大きなショックやダメージを与えます。

例えば、今私たちは、この日本で、直接的に命の危険を感じることなく、安心して学校に通い、学ぶことができる環境が当たり前ですが、世界に目を向けると当たり前ではありません。

ウクライナを始め、内戦の続く地域などでは、学校に行くこと以前に、安心して生活することすらままならない状況下で不安な日々を送っている子どもたちがたくさんいます。

日本においても、学びたくても学ぶことができなかった多くの先人たちの犠牲の上に今があるということを考えてみると、当たり前の平和な日常というのは本当に有難く、恵まれているなと感じます。

本日の聖書箇所には「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」と書かれています。

先ほどからお話しているように、あって当然のこと、当たり前のことは、何事においてもその裏で支えてくれているものや支えてくれている人がいます。

私たち人間はついつい欲が出ます。

思い通りにならないことに不平不満を持ってしまい、現状に満足できなくなることがあります。

けれど、当たり前は当たり前ではなく、陰で支えてくれているものや人々のおかげで私たちは生きることができる、生かされているのだということに感謝することができれば、その不平不満はどこかに消え去り現状に満足して生活することができるようになるのではないでしょうか。

そうすれば、今日という日を、心に余裕をもって、豊かに過ごすことができるのかもしれません。

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