礼拝の話

2021/12/13 

12月7日(火)聖書 ヨハネによる福音書 8章3~11節 社会科 山脇

高校3年生の日本史と、中学2年生の歴史分野のクリスマス授業では、遠藤周作の『沈黙』を題材にイエス・キリストの誕生の意味を考えてみました。

小説の舞台は、キリスト教が禁止となった江戸時代前半の九州長崎。

島原の乱以降、キリスト教への取締りが厳しくなった日本で、キリスト教を伝えることを試みた若いカトリックの神父ロドリゴ、日本人キチジローを中心とした物語です。

キリシタンを捕らえる役人たちにロドリゴも捕まりました。

牢屋の中で、隠れキリシタンの人々が厳しい拷問に耐える、その呻き声を聞かされたロドリゴに、役人は踏絵を差し出し「これを踏めばあの人たちは救われる」と言い、ロドリゴは、とうとう踏絵を踏みました。

踏絵を踏んだ時、ロドリゴは足に鈍い痛みを感じます。

その時、ロドリゴの耳に「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負った」という声が、踏絵に刻まれたその人、イエスから聞こえました。

踏絵を踏んだロドリゴは、日本名を与えられて長崎で暮らすことになるのですが、ある日、彼の前に再びキチジローが現れます。

キチジローはロドリゴを役人に売ってしまったことを後悔し、罪を告白しに来たのです。

ロドリゴは、キチジローを責めることなく、「行きなさい」とだけ告げました。

この小説は、「そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。」というロドリゴのセリフで終わります。

ロドリゴは厳しい弾圧を受ける中で、改めて神の存在を確信したのです。

クリスマス授業のために、久しぶりに読んだ『沈黙』でしたが、そこには、なぜイエス・キリストがこの世に誕生されたのか、その根源的な意味が描かれているように思いました。

それは、イエス・キリストが私たちの罪を背負うためにこの世に遣わされ、私たちの罪を贖うために十字架に架けられたということです。

今日の聖書箇所には、イエスが一人の女性の罪を赦す場面が描かれていました。

罪を犯した女性を取り囲んだ群衆は、絶対に処罰するべきだと主張します。

我々の掟を守らなかった、だから石で撃ち殺すべきだと主張する人びとに、イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」といわれました。

これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と立ち去っていきます。

誰もいなくなった後、イエスは女性に「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と、その女性を罪に定めず赦したのです。

イエス・キリストの誕生を、なぜ私たちは感謝するのでしょうか。

それは、今日の聖書箇所にあったように、全ての人の罪をイエスが引き受けてくださったことによって、私たちが「私らしく」生きることができるようになったからです。

今日の聖書箇所で罪が赦されたのは、この女性だけでしょうか。

彼女を罪に定めようと、石で打ち殺そうとしていた群衆をも、イエスは赦されたのではないでしょうか。

自分たちは間違っていない、悪いのはあいつだ、自分たちは絶対に正しい、と思っている人々に対して、イエスは「本当にそうですか?」「自分を見つめてみなさい」といっているように思うのです。

その結果、一人また一人と立ち去って行った群衆たちは、その時、自分の心の中にある罪や卑しさ、心の貧しさに気づいたのだと思うのです。

イエスの言葉によって、群衆たちは自分の心を見つめ、「私らしさ」を取り戻すきっかけを与えられたのです。

『沈黙』の作者遠藤周作は、イエス・キリストがなぜこの世に遣わされたのかということを、そして神の存在の確かさを、キリスト教が禁止されていた時代の日本を題材に描きました。

待降節に入り、クリスマスを間近に控えたこの時期に、改めてイエス・キリストの誕生の意味を考えたいと思います。

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