礼拝の話

2020/12/08 

12月8日(火)聖書 コヘレトの言葉 5章17~18節 保健体育科 山﨑

四国には八十八箇所参り、というものがあります。

八十八箇所参りは、四国内にある88のお寺を詣で、御朱印を押してもらい、自分の願いが成就するようにお参りするものです。

全てのお寺を廻り終え、88個の御朱印を集めると「結願」、願いが叶うとされています。

本当に願いが叶うのだろうか…そこが一番の疑問に思うことなのですが、最近、ある僧侶の方が話されたインタビューを聞く機会があり、その疑問は意味をなさないものだということに気づかされました。

その方は八十八箇所参りの意義について次のようにおっしゃいました。

「八十八箇所参りは、八十八のお寺を巡礼することや全てを廻り終えることが目的ではない。八十八箇所を廻っている間に出会う人々と交流することこそが一番大事なのです。そこに宝物があります」と。

この言葉を聞いて、「自分の願いを叶えられないなら、そこに意味はあるのか」と思っていた自分が恥ずかしくなったと同時に、「人との交流が宝物」というのは、とても素敵な言葉だなと、なんだか心が清められた思いがしました。

『人々との交流をする場』として、遍路道には「お接待」があります。

道中の所々でお遍路さんを休ませ、お菓子や飲み物などを無償で提供し、温かく迎えます。

遍路道は、元々が僧侶たちのための修行の道で、昔は細く険しい山道やでこぼこした土の道を歩かなければなりませんでした。

「お接待は」お遍路さんの大変さを感じた地元の人たちが、その人々を労うために始めたと言われています。

よく県外の人から「高知の人は温かい」という言葉が聞かれますが、それはこういう文化の中から生まれて来たものではないだろうかと感じます。

このインタビューの数日後に、今日の聖書箇所に目が留まりました。

『神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果の全てに満足することこそ幸福で良いことだ。神から富や財宝をいただいた人は皆、それを享受し、自らの分をわきまえ、その労苦の結果を楽しむように定められている』とあります。

「神さまからいただいた財宝」、それは例えば、この「人との出会い」ではないでしょうか。

様々な方と出会い、話をしたり、意見を聞いたり、またそれまで知らなかったことを教えてもらったりすることで、自分自身の考えが広められ、心が豊かになるように思います。

あるいは、一つのゴールや目標に向かって行くまでの途中で、いくつかの困難にぶつかったり、辛抱を重ねたり、はたまた思わぬご褒美を得られたり、楽しいひと時を過ごしたりと、「様々な経験を積むこと」も神さまからいただいた財宝なのだと思います。

その道中では、「なぜ自分ばかりがこんな目に遭うのか」と感じることも時にはあるかもしれません。

しかし、時間が経って振り返ると、あの時にあの経験をしていて良かったと思えることがたくさんあるなと、最近よく感じます。

学校生活の3年間、6年間で、様々な先生方と出会い、多くの知識を学び、多くの経験を積みます。

期末試験のために、時間を惜しんで勉強した人、眠気と闘いながら必死に勉強した人、分からないところを解決するために遅くまで学校に残って勉強した人など、それぞれがこの数日間でも、それぞれの経験を積んでいます。

その経験は、きっと、今後の人生を歩んでいく上で、みなさんを助けてくれると今日の聖書箇所は教えてくれています。

勉強した時間を、かけがえのない宝物として持ち、歩むことができるよう、今日からの期末試験にも、精一杯臨んでいきましょう。

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