礼拝の話

2024/02/16 

2月13日(火) 聖書 マタイによる福音書 14章13~14節 社会科 山脇

私はどちらかといえば朝型の人間で、朝、アラームが鳴る前に、「もうすぐ鳴るかなぁ」と察知して、鳴るのを待つこともよくあります。

この何かを感じる、察するという感覚は、人間だけでなく、命あるもの全てに共通しているように思います。

「察する」という言葉は、気配を察するという時だけでなく、相手の気持ちを察するという言い回しでも使う時があります。

この「察する」という言葉はどういう意味があるのか気になり、辞書で調べてみると、まず「推し量って考えること」つまり、推測するという意味がありました。

そして、もう一つ、「思いやる」「同情する」という意味が書かれてありました。

物事の変化を推測する、察知する、という意味だけでなく、相手の心を思いやる、その心に同情する、「察する」という言葉には、そのような意味も含まれているのかと、ハッとさせられました。

今日の聖書箇所はこの朝の礼拝でも度々紹介されている箇所です。

寄り所がなく、救いを求めてやってきた群衆を見て、イエスは群衆一人ひとりの心を思いやり、その心に同情したのです。

イエスは人々が抱える心の重荷、悲しみや苦しみを察して、病に苦しむ人々の病を癒し、ともに食事をとったのです。

そう考えると、私たちは日常生活のなかで、いろんな場面で「察する」という感覚を働かせながら歩んでいるのかもしれません。

私たちは物事の変化を察して自分の命を守っていると同時に、周りの人の心も察して、互いにその命を守りながら日々の生活を歩んでいるのだと、言葉の意味を調べてみて改めて気付かされました。

イエスが群衆とともに歩み、人々の心を察して病を癒し、食事をともにしたこの聖書箇所は、まさに人々がお互いに心と命を守りながら生活を送る姿そのものだと感じます。

今日という一日も、救い主イエス・キリストが私たちの心を励まし、ともに食事をとり、歩んでくださることに感謝したいと思います。

同時に、私たちもお互いに支え合える、そのような一日となるよう祈りたいと思います。

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