清和女子中高等学校。創立113年の高知県の私立女子校。キリスト教主義の中高一貫校です。
2024/02/21
中高生、というものは、おしゃれに興味がある年頃なのだと聞きます。
「なのだと聞きます」、変な言い方をしました。
なぜならば、わたしはほとんど興味のない中高生時代を過ごしたからです。
わたしの世代はギャル文化真っただ中だったように思います。
寒い真冬に短いスカートで「さむ~い!!!」と叫んでいるのを聞いては、「ねぇねぇ、なんでそんなに足出してるの?」とよく聞いては、「そりゃ、かわいい方が寒いより勝つからね!!」という返答に、わたしにはわからん世界だと思うのが常でした。
よく不思議がられたのは、「歩く校則」のようなスタイルのわたしが、世でいう「ギャル」の子たちとふつうに話して、やり取りしている場面でした。
簡単に言うと、「あなたのような地味な子がなんであの子たちとふつうに話しができるの?」という感じでしょうか。
当時もクラス、学年ではさまざまな「グループ」がありました。
「オタク」「勉強家」「ギャル」は、どうやら当時も一般的に考えると、互いに相容れないグループのようでした。
でも、なんで相容れないと思うのでしょうか。
同じ中学、高校の同じ学年の仲間ですから、仲良しもいれば、あんまり得意ではない子もいるのは当たり前です。
自分が興味あることを一緒に話せる子もいれば、特に何も話さなくても一緒に時間を過ごせるという子もいます。
要するに、自分が属する、ある種分類された場所だけで生きているのではなく、それぞれの好みやしたいことはあっても、その人はその人、わたしはわたし、という世界で、わたしたちは生きているということです。
べったりとくっつくことが友情や仲良しではないことは誰しもわかっているでしょう。
それと同じように、突き放し、関係を避けることも、人間関係を構築するうえではあまりよい手段ではないでしょう。
苦手な時は、苦手なりに過ごす方法を、仲良くなれば仲良くなったで、きちんと相手との距離を取ることがわたしたちには必要です。
一見相いれないと思った相手でも、その人自身として関わる中で、その本当の姿が見えてくることがあります。
イエス・キリストは、今から2000年前、当時のユダヤ教の世界で生きました。
当時、その社会からはじかれた人々がたくさんいました。
律法を守れる側と、守れない側。
必要とされる者と、数にさえ数えられない者。
そのことを見てきたイエスさまは、そのはじかれた人々と共に生きることをその生涯を通してわたしたちに伝えています。
何を区別しているんだい、神さまに大切に思われて命を与えられている一人ひとりではないか、と。
聖書は、そのことをわたしたちに知らせ、自分自身として生きること、他者と共に生きること、そして最後には、すべてをお任せできる方がいる、ということを教えてくれます。
考え続けること、悩みの中でも全力を尽くした最後はすべてをお委ねし、歩む力が与えられることを身につけるために、1つ1つ学んでいるのだと思います。
今日という1日を、お互いに、自分自身として、また共に生きる一人ひとりとして、しっかりと過ごしたいと思います。