礼拝の話

2024/02/07 

2月5日(月) 聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章9~10節 社会科 藤村

人と人が結ぶ関係を、歴史学ではソシアビリテと呼びます。

血縁関係、職業など、様々なソシアビリテが存在します。

近世のパリでは、外敵から守るために、街の外に壁が建設されました。

壁は「こちら」と「あちら」を区切るものです。

「こちら」を、「あちら」から守ろうとするものです。

私たちもそれぞれに、心に壁を持っていると言えます。

生垣のようなのどかな壁の時もあれば、鉄線をめぐらしたような壁の時もあると思います。

あって当然の心の壁ですが、自分の心と相手の心を守る砦として、壁とは上手く付き合っていく必要があると思います。

一方で、現実世界で建設される壁は、常に戦争の気配を含んでいます。

歴史の中では、万里の長城、中世ヨーロッパの城壁、ベルリンの壁。

現在も、世界の国々がいくつもの壁を建設しています。

「防衛」を名目に建設された壁は、「こちら」と「あちら」の隔たりを色濃くし、分断を生みます。

作家の村上春樹が、ある文学賞を受賞したときに、「壁と卵」というスピーチをしました。

「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。」というものです。

これは、イスラエルから贈られた「エルサレム文学賞」を受賞したときに、現地で語られたものです。

2008年の当時、イスラエルはパレスチナ自治区ガザを攻撃していました。

現在と同じ状況です。

壁と卵が表すのは、戦争だけではありませんでした。

村上さんのスピーチで注目したいのは、「どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます」という部分です。

卵は完璧ではなく、間違っているかもしれない、それでもなお卵の側に立ちたいと言うのです。

今日の聖書箇所は、自分の弱さを取り除いてくださいと願ったパウロが、「わたしの力は弱さの中でこそ発揮される」というキリストの言葉を聞く場面です。

私たちは完璧ではなく、弱さと共にあります。

そして過ちを許され、無条件に愛を与えられるときに、自分自身の弱さに気付きます。

清和での日々は、エルサレムにほど近いベツレヘムに貧しく低く生まれた、キリストの教えと愛に促されて、成り立っています。

卒業を迎える高校3年生の卒業文集には、その中での歩みや成長が綴られています。

高校3年生にとって、当たり前となった清和での日々はもうすぐ終わります。

毎朝のチャペルも、帰りのホームでのクラスメイトのお祈りも、あと数回を残すばかりです。

みなさんは、自分自身のことから、周囲との関りから、そして聖書の言葉を通して、壁に直面する卵のような「弱さ」を、よく知っていると思います。

「弱さ」を知っていることこそが「強さ」となり、自分自身や周囲に対して、愛を持って接することができるはずです。

清和の卒業生となるみなさんは、その力をもった、大切な存在です。

卒業後も、それぞれの場所で、それぞれの愛が一層深められ、「心の清い人」「平和を実現する人」としての歩みを進められるようにと、祈っています。

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