礼拝の話

2021/04/12 

4月12日(月) キリスト教教育週間 聖書 コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章9~10節 校長 小西二巳夫

今週の5日間、キリスト教学校の清和が大切にしていることについて話します。

今日はその1日目、価値観についてです。

価値観というのは、ものの見方です。

ものの見方にはいろいろあります。

たとえば、あるアイドルを「推す」人と、あまり興味がない人では、そのアイドルの見方、つまり価値が人によって違います。

今日考えたいのは「強い・弱い」ということについてです。

「強い・弱い」についてしっかりとした見方を持つこと、キリスト教の考え方、価値観を持つことが、自分が悩んでいることや悩まされていることのかなりの部分を解決すると言って言い過ぎではありません。

「強い・弱い」ということで、「弱い」が好きだという人はまずいません。

ほとんどの人が強いか弱いかのどちらを選ぶといわれたら「強い」方を選ぶでしょう。

ところが、先ほどの聖書の箇所には、「強い」より「弱い」方がよいと書いてあります。

弱い方が強いより価値があるとはっきり書いています。

そこで「強い・弱い」についてオノマトペで考えることにします。

学校生活にはたくさんのオノマトペがあります。

「はきはき」した生徒、「すらすら」「さくさく」問題を解く、「ばりばり」「がんがん」「どんどん」取り組む。

このようなオノマトペができたら、成績や評価は間違いなく「ぐんぐん」「ばんばん」「にょきにょき」上がるでしょう。

以上のオノマトペに共通しているのは「強さ」「強い」ということです。

でも、そういう生徒ばかりだとどんな学校、どんな人間関係になるでしょうか。

「ぎすぎす」した学校です。

緊張ばかりしていて、気持ちも体も「へとへと」「くたくた」「ばてばて」になります。

多くの学校が嫌うオノマトペがあります。

言い方を変えると「弱さ」を表すオノマトペです。

「もごもご」「ぼそぼそ」答える、「もじもじ」「おろおろ」する、「どきどき」「はらはら」「そわそわ」落ち着かない。

今日の聖書はそういう弱さこそが大切なのだと書かれています。

弱さには強さ以上の力があるからです。

キリスト教は、私たち一人ひとりを支えているのは、弱さだと考えています。

弱さが私たちを守ってくれるというわけです。

その根拠が何にあるのでしょうか。

それはイエス・キリストの十字架です。

イエス・キリストは十字架にかけられて殺されました。

十字架にかけて殺されたのは弱いからです。

でも、その弱さが一人ひとりを救う力、生きる力や勇気になったと考えるのがキリスト教です。

そういわれても、すぐにわかる人、納得できる人はいないでしょう。

それはそれでいいのです。

「だんだん」とわかっていけばいいのです。

ただ、これはわかるはずです。

自分の弱さを大切にされたら、心配が安心に変わります。

つまり学校生活は「うきうき」に変わるのです。

自分の弱さを受けとめられることによって、大きく息を吐いたり吸ったりできるようになります。

深呼吸ができると、自然と「わくわく」とした気持ちが出てくるのです。

内側から「むずむず」としたエネルギーが湧いてきそうです。

「ずんずん」進んでいく自信も出てきます。

自分を周りの人の弱さを受け入れる、それが清和の学校生活の出発です。

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