礼拝の話

2020/04/21 

4月21日(火)聖書 マタイによる福音書 5章8~9節 国語科 古口

自粛の続く毎日、報道を通してさまざま情報が入ってきています。

正しい情報を得て、正しい対策・対応ををして、正しくこわがろう、と各メディアが伝えています。

そんな中、ウイルスに関連して「正しさ」をめぐるいろいろな騒動やSNSで拡散されている世界の心温まるエピソードを目にします。

先日観た映画で、主人公のあるセリフがとても心に残りました。

「正しいことをするのはもちろん大切なことです。

だけど、優しいことをするほうがもっと大切なんじゃないでしょうか。

戦争みたいに、正しさと正しさはぶつかるけど、優しさと優しさならぶつからない。

ふたつの優しさが出会ったら、もっと大きな優しさになる。

いま私たちがこだわるべきなのは優しさなんじゃないでしょうか。」

私たちをとりまく様々な場面で思い出したい言葉だなと思いました。

「正しさ」と「優しさ」。

「正しさ」があることで、社会に秩序が生まれ、「優しさ」があることで、社会に安心が生まれます。

どちらも大切であることは明らかです。

「正しさ」も「優しさ」も一つではありません。

一つでないから、一人ひとりが考えます。

何が正しいのか。

何が優しいのか。

今はどちらを大切にするときなのか。

「正しさ」は法律やルールによって定義することができます。

基準となるルールが決まっていれば、その仕分けはAIでもできますが、国や地域、育ってきた環境、その場の状況によってルールは違います。

ルールが違えば「正しさ」は変わります。

「優しさ」は何によって定義できるでしょうか。

「優しさ」はそれを感じ取る感性の問題と言えるので、自分の心と相手の心によって、とでもしておきましょう。

自分の心と相手の心は違う心です。

同じ出来事であっても感じ方や捉え方は人によって違うように、一人ひとりの心は異なります。

でも人間が、場所も時代も超えて共通して持っている心があります。

それは「愛する心」「相手を大切だと思う心」です。

この心が根源にあるならば、その言動は「優しさ」と呼べるのではないでしょうか。

今日の聖書箇所には、今年の年間聖句を選びました。

「清和」という名前の由来、建学の精神とも言える聖書の言葉です。

清和が目指す「心の清い人」「平和を実現する人」は、優しい人なのだと思います。

神さまは神さまに似せて人を造られた、と聖書には書いてあります。

そしてその神さまが愛であるというのは、清和の石碑にもある通りです。

愛の神さまに似せて造られた私たちには、「愛する心」があります。

ルールは人が作ります。

でも「愛する心」を人に与えたのは神さまです。

この心から出る「優しさ」が、これからの学校生活、これからの社会、これからの人生を、あたたかく生きやすく豊かにしてくれると思います。

今日それぞれの場所でのみなさんの一日が、ウイルス対策として正しい一日であることはもちろん大切ですが、それ以上に優しい一日であるといいなと思っています。

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