礼拝の話

2023/06/16 

6月13日(火) 聖書 箴言 9章10節 音楽科 三浦

昨日は学校記念日礼拝でした。

礼拝後の講演では「キリスト教学校で学ぶ意味」と題してお話をお聞きしました。

一人ひとり、考えさせられたことは違うと思いますが、高知県に1つしかないキリスト教学校で、今自分が学んでいる、ということの意味をしっかりと考えていきましょう。

各学校には建学の精神というものがあります。

清和の建学の精神、そして母校の建学の精神を考えながら、なぜダウド先生は校歌として讃美歌452番を歌い継ぐように考えられたのだろうということを考えました。

昨日の紙芝居でもわかるように、ダウド先生は、土佐弁はある程度わかっていたのだと思うのですが日本語には苦労されたのだろうと思うのです。

その中で、なぜ452番だったのだろうと思ったとき、今回歌った英語での歌詞を味わってみると、今まで歌っていた452番の歌詞とは少し異なる印象を受けました。

何がそう思わせるのだろうと、讃美歌21の520番と校歌452番を見比べてみました。

ふと気づいたことは、452番の歌詞も、英語の歌詞も、主体が「I」わたし、であることには変わりないのだけど、英語の歌詞と520番の歌詞には、その奥にいる人、相手が見えるように感じる、ということなのではないか、ということでした。

どの歌詞の訳がよいとか、悪いとかいうことではなく、452番の歌詞は、自分がこうあらねば、こうありたい、という思いが強く感じられるように思うのに対して、520番の歌詞は、その相手のために自分はこうありたい、そして自分自身にこのように向き合いたい、と歌っているように感じたのです。

とくに2番の歌詞は、簡単に訳すと『全ての人と友となりたい、敵とも、友がない人とも。わたしは自分の弱さを知っているので、謙虚になりたい。顔を上げ、笑って、愛して、心を向上させたい』というこんな感じになるでしょうか。

ダウド先生は、校歌を決める時、きっと、この英語の歌詞を思って、このような一人ひとりとして、清和で学び、社会に出ていってもらいたいという願いを持っていたのではないかと思います。

何か、強さを誇ったり、正しさを誇ったり、ということではなく、大切な一人と出会い、自分を見つめ、世で生きることを考える、そんな女性を育てたいという思いが、この讃美歌を導いたように思います。

キリスト教学校で学ぶこと、中高時代を過ごすということは、これからの人生をより広く深く考える材料を日々与えられるものなのだと、昨日1日を通して感じさせられました。

今日も新しい1日を清和で学ぶ一人ひとりとして、しっかりとした歩みを続けたいと思います。

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