礼拝の話

2023/06/28 

6月19日(月) 聖書 ヨハネによる福音書 9章1~3節 校長 小西二巳夫

今日の聖書の箇所では、弟子たちがその人の目が生まれつき見えないのは本人が罪を犯したからか、両親が罪を犯したからかと、それがいかにも重要なことのように議論を始めましたが、よくわからないのでイエスに意見を求めました。

罪は、当時の社会で最高のものとされていた律法ルールを破ったために、罰として与えられるもの、悪いものと考えられていました。

弟子たちがそのことを質問したということは、彼らも見えないことを悪いこと、かわいそうな事と考えていたことがわかります。

イエスの答えは「目が見えないことと罪は何の関係もない。強いて言うなら、この人の目が見えないのは、神の恵み救いが何なのかを伝えるために、神がこの人を選ばれたからだ」という思いもよらないものでした。

この答えに弟子たちも周りにいた人たちも「エッ」という驚きの声を上げただろうと思いますが、一番驚いたのは、目が見えないその人自身だったのです。

その人も自分の目が見えないのは、自分の罪か両親の罪かと考えていたはずです。

目が見えないことで、家族も周りから心無いことを言われ、しんどい思いをしてきたのです。

自分など生まれてこなければよかったと考えることも何度もあったはずです。

イエスはその自分に、神の恵みや救いを知らせるために選ばれたと言われたのです。

その言葉は彼にとって自分が生きていてよいとのイエスの宣言に聴こえたはずです。

自分には神から生きる意味と使命が与えられていると言われたのです。

イエスは驚きを隠せないその人の瞼と眼に自分のつばで捏ねた泥を塗り、近くの池の水で洗え、そうしたら目が見えるようになると言われ、実際そうなったという話です。

話はここで終わらず、10節で近所の人たちが、目が見えるようになった人に聞きました。

「お前の目はどのようにして開いたのか。」

でもこの質問、何か変な感じです。

ふつうはどうして目が見えるようになったのかと視力が回復した理由を聞くはずです。

けれどここでは、「開いた(ひらいた・あいた)」と聞いているのです。

開くというのはそれまで閉じていたものが開かれると言うことです。

なぜ近所の人がそのような聞き方をしたのかです。

近所の人というはふだんから何かの付き合いのある人のことです。

その人たちはが、目が見えるようになった人を見て誰かわからなかったのです。

それは、それまでずっとうつむき加減に生きていた人が、まっすぐ前を見て歩いているのを見て、その変わりように、見間違ったのかもしれません。

見違えるようにきれいになった、見違えるように立派になったとの言い方があります。

近所の人たちは戻って来たその人を見てまさにそう思ったのです。

目の見えなかったその人が開いたもの、それはこれからの人生です。

目が見えないと言うことで自分の将来は何もない、人生お先真っ暗と思っていました。

それがイエスに出会って、目の前が開けた、自分の人生が見えたのです。

一人の人との出会いが人生を変える、一つの言葉に人生が開かれる、聖書はそれを奇跡と呼びます。

人生を変えるとは、それまでの自分を捨てることではなく、自分をそのまま受け入れることです。

それによって世界が違ったものに見えてくることを聖書は教えてくれているのです。

目の見えなかった人が自分らしく生き始めたのを知って救われた人がいました。

それは家族です。

そして自分や家族の不自由さやハンディが罪の結果と思わされてきた人たちです。

その人たちが、そうした思いから解放されたとしたら、それはまさに神の恵みと救いが現れたと言えます。

そして、何より今日ここに集まった私たちが、神の恵みを現わす生き方をする一人ひとりに選ばれていることに気づきたいと思います。

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