礼拝の話

2023/07/04 

6月21日(水) 聖書 ルカによる福音書 9章46~47節 日本キリスト教団 高知東教会 益敏牧師

イエスさまには、12人のお弟子さんがいました。

お弟子さんですから、イエスさまのお考えをよく知っていて、さぞ立派な人たちだろうと思うかもしれませんが、実はそうではありませんでした。

イエスさまのお考えと違う考え方をしては、イエスさまからその間違いを教えてもらう、いわば、私たちの失敗を代表して見せてくれるような人たちでした。

この日も、お弟子さんたちは「自分たちのうちでだれがいちばん偉いか」を話し合っていました。

イエスさまは、一人の子どもをご自分の側に立たせて「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」言われました。

なぜイエスさまは、最も小さい者が最も偉いと言われるのでしょうか。

何もしない、努力しない、できないことが良いことだと言っておられるのでしょうか。

そうではないようです。

「この子どもをあなたは受け入れるか。あなたは、小さい子どもだからと言って、この子を軽く見るのか。私はこの子を愛し受け入れている。私が愛し受け入れているこの子をあなたは愛し受け入れないのか」と問うておられます。

今、NHKの朝ドラ「らんまん」で、高知県出身の植物学者、牧野富太郎の生涯が取り上げられています。

牧野富太郎は、「雑草という草はない」と言います。

「自分たちが名前を知らないだけで、どの草にも名前がある。」

そう言って、小さな草花を観察し、名もない草花を見つけては名前を付けて行きました。

富太郎にとっては、ただの雑草は一つもなく、それぞれに名前をもって生きている、生かされている、たくましく美しい草花たちでした。

私たち人間も同じです。

ある人は、バラのような人が美しいと思うかもしれませんし、野に咲く小さな名もない花にも美しさがあり、それぞれに違う美しさがあります。

そのように私たちは、みんな違っているけれどもイエスさまは、その小さな一人を愛し受け入れておられます。

大切に思ってくださっています。

だれもが、それぞれに、イエスさまに認められ、受け入れられている存在です。

何かが出来るから偉いということではなく、最も小さい者であっても、その存在自体がそのままで偉いということです。

私たちは、だれもが、イエスさまに大切に思っていただいている小さな偉い一人です。

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